ごきげんよう!さわこです。
「嵐の中の教会―ヒトラーと戦った教会の物語」 ブルダー著。
昨夜、読み終えました。
ナチズムの擬似宗教的世界観、それをナチスは「積極的キリスト教」と呼びました。
このドイツ教会闘争を背景としています。
ナチスがキリスト教会を異教化しようとした時代、
教会の擁護のために戦った小さい村の牧師と信徒たちの実話に基づく物語。
慣習化し形骸化していたキリスト教に安住していた小さい村の信徒たちが
危機に際して目覚めていくのです。
危機によって悔い改めへと導かれる信徒たちの姿。
キリスト教の禁教の時代に、神の忠実であったために
逆さ吊りの拷問によって殉教したペトロ岐部をモデルに書かれた二冊の本。
加賀乙彦「殉教者」と遠藤周作「銃と十字架」に続いて読んだ本が
「嵐の中の教会」です。
私たちは黙示録によれば、ラオデキア教会であると言われています。
黙示録3:16ー19
「・・・あなたは生ぬるく、熱くも冷たくもないので、わたしは口からあなたを吐き出す。
・・・あなたは・・・実はみじめで、哀れで、貧しくて、盲目で、裸であることが分かっていない。
・・・わたしは愛する者をみな、叱ったり懲らしめたりする。だから熱心になって悔い改めなさい。」
なまぬるい信仰、真の悔い改めをしていないクリスチャンたちの群れが、今の時代の教会だと聖書は戒めているのです。
確かに当たっています。神の標準を人間の標準に引き下ろし「主よ、主よ」と言い「神は愛」だと言う信仰。
熱心だと思っている信仰、悔い改めを微妙に取り違えている信仰。しかし、それが分かっていない。
神様は不思議な方法で、この三冊の本を私が読むように導いてくださいました。
私の霊性にとって、実にタイムリーな、私にとって必要な本たちでした。
なまぬるさに気づかせ、悔い改めへと導かれて行く村人たち。
しかし、そうならない人々もいるのです。ナチスの側にくみしていく人々もいるのです。
あとがきから紹介します。
本書の原題は「山の上にある村」であるが、言うまでもなく、
マタイによr福音書5:14「あなたがたは世の光である。山の上にある町は隠れることができない」
から取られたもので、リンデンコップというドイツの農山村にある小さい村の福音主義教会に、
1932年から35年にかけ起こった出来事を、教会代表役員の1人であるペーター・ホルッシューが語り、
詩人作家のオットー・ブルダーが書き綴るという形をとっている。
それはフィクションとしての物語であるが、「ドイツ教会闘争」の事実に即している。
この物語に登場する主人公の一人であるグルトン牧師のモデルは
ハイデルベルク大学神学部教授であったペーター・ブルーダーである。
ブルーダーは戦争中、スイスに亡命して著作活動を続けていたが、
ボンヘッファーは反ヒトラー抵抗派の密命を帯びてスイスを訪れたとき、ブルーダーの家に8日間滞在した。
その折、この本の草稿を読み「ドイツの内面を証しする最も重要な証言」として評価したという。
私はボンヘッファーは知っていましたが、ペーター・ブルーダーは知りませんでした。
いざとなった時、私はどちらを選ぶことになるだろう?
嵐が来た時に、私の信仰の本性があらわれるのかもしれない。
マラナ・タ
神の言葉は生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、
たましいと霊、関節と骨髄を分けるまでに刺し貫き、
心も思やはかりごとを見分けることができます。
神の御前にあらわでない被造物はありません。
ヘブル4:12,13