ごきげんよう!さわこです。

 

今朝の北山。珍しい雲のかたち。

 

ルカ4章から、気づかせていただいたと思ったことを

昨日から心に留め続けています。

そのことを書こうとしてためらいました。

なぜなら、ある言葉が、私の喉に魚の骨のように引っかかっているのです。

 

「あなたの語ることや書くことは“気づいた、気づかされた”ということばかりですね」

 

それは否定的な雰囲気を持って伝わって来たので、

ある意味、嘲笑的にも聞こえたので、

あなたには慎みがないとも聞こえたので、

しかも信頼している人からの言葉だったので。

 

思った、感じた、気づいた、としか言いようがないのですもの、

私は返事に窮してしまいました。

そう・・・私にとっては聖書を読むことは、神様との交わり。

 

        西空には、昨日の月齢18.1の月が薄く見えます。

 

神様の言葉をお聞きして

「あなたは、どう思うかね?どう感じたかね?どのような主題だと気づいたかね?」

と神様が聞いてくださるのです。

(神様が預言者でもないあなたに直接語るなんてありえませんよ)

 

私の気づきは話すべきことではなかったのかもしれません。

心の奥深くに納めておくべきことだったのかもしれません。

 

「出来る限り“黙する”ようにしなさい」との聖霊様の勧告だったのかもしれません。

「黙するに時があり、語るに時がある」(コヘレト3:7)のですから。

しかし、

「・・・主の言葉は、私の中、骨の中に閉じ込められて火のように燃え上がります・・・」(エレミヤ20:9)

 

主よ、私はどうすればよいのでしょうか。

 

気づきを分かちあってほしいと望む人もいるのに、

嘲笑うような声ばかりが大きく聞こえてしまい、振り回されてしまうというのはなぜなのでしょうか。

 

デボーションノートがどんどんたまって行き、段ボールに移す。にもかかわらず溜っていく。

パソコンを使うようになって、ワードが私のもう一つのデボーションノートになりました。

ワードでの保存記事も溜っていく。どんどんたまっていく。

そうだ、ブログというものがある。

それならば、聞きたい人だけ、読みたい人だけが自主的に私のブログを開くのだから。

読みたくない人は開かない。関心のない人も開かない。

わけもわからない話を聞かされたと不快にさせることもない。

なんていい方法だろう。

 

               南の空の日輪。

 

語るよりも、ひそやかに、書くことに専念しよう。

口数の少ない慎み深くある女性をめざそう。

慎みある女性、それは私の理想像。

書きながら“自笑”してしまいました。

“自笑”は、私の造語です。

 

ところが、

「要するに何を書きたいのですか?

もっと、端的に書く練習が必要です」とも。

 

事務的に、箇条書きに、これこそ分かりやすい。

口には轡(くつわ)、手は縛られて。

捕囚の民のような私、自嘲的です(自笑)

 

時々、このような自己を客観視し、自分の棚卸をすることも

成長への一里塚。

生きる命は、神の御目には成長していく。

 

長い長いひとりごと(笑)

では、ルカ4章からの気づきは、またあとで。