ごきげんよう!さわこです。

   教会への途中、橋の上から。

今日は教会祈祷会

EGホワイトの「各時代の大争闘」を輪読して分かち合い、そして、二人一組になって祈り合います。

 

今日は、第8章 われここに立つ―国会におけるルター―

今日、輪読したところを、要約しました。

 

カール5世の即位後まもなく開かれたドイツ国会にルターも出席することになった。

ローマ法王使節はルターの宗教改革を押さえつける機会にしようとルターを攻撃した。

各時代において、確立された誤りに反対する真理の擁護者たちは常に攻撃されてきた。

しかし、ここで主は、国会の一議員ザクセンのゲオルク侯爵を動かした。

集まった貴族たちの前で、断固とした態度で、法王制の欺瞞と悪虐とその悲惨な結果とを正確に指摘した。

聖職者たちの背徳行為に対して一大改革が行われねばならないと発言した。

マルチン・ルターはそこにいなかった。神の力は、議会を導かれたのである。

宗教改革の敵達さえも支配し、まさに成し遂げられようとする大事業への道を備えたのは真理と知恵の神の力であった。             

(以上、私の要約)

 

神様がルターを用いられる様子が臨場感を持って伝わってきました。

私の学んだ時代の世界史の教科書には、ウイクリフやフス、ワルド派の人々の名前は出てきませんが、ルターは写真入りで出てきます。

そこで、私はルターを宗教改革の英雄の様に思っていました。

後になってルターがユダヤ人を差別し非難しユダヤ人迫害虐殺につながる発言をしたことなど知る由もなかったのです。

 

また、聖書のみ、聖書に忠実なプロテスタント教会は、ルターの宗教改革によって始まったのに、

聖書に記された安息日は守られず、カトリックによって正当化された日曜日の礼拝を踏襲したことも不思議なことでした。

私のこうした疑問は、EGホワイトのこの文章によって納得できたのでした。

 

以下、抜粋します。

宗教改革は、多くの人が考えているようにルターの時代を持って終わったのではない。

それはこの世界の歴史の終末まで続くのである。

ルターは、神が彼の上に照らしてくださった光を他に反映して、大事業をしなければならなかった。

しかし、彼は、世界に与えられるはずの光を、全部受けたのではなかった。

その当時から今に至るまで、新しい光が絶えず聖書を照らし、新しい真理が常にあらわされてきたのである。

                                                                                                                                               以上

 

安息日が日曜日に変えられたのではないことも、煉獄の存在もないことも、霊魂不滅でないことも、

これらは聖書に書かれていないことが漸進的に分かってきています。

ルターは、与えられた光の中で、神様から勇気を頂き、力を頂き、

神様から与えられた為すべき務めを為した勇者には間違いないのです。

しかし、宗教改革はご再臨に向けて今も前進中なのです。

 

ルターが選挙候に書いた文書を部分的ですが、(・・・は省略箇所)引用します。

「もし、わたしが健康な体でウォルムスに行くことができなければ病気のまま運ばれて行きたいと思います。というのは、もし、皇帝がわたしを召しておられるのなら、それは神ご自身の召しであることを、わたしは疑うことができないからです・・・わたしはこれ主の御手にゆだねます。・・・もし、神がわたしをお救いにならなくても・・・ただ福音がよこしまな人々の嘲笑を受けることが無いように努めましょう・・・すべての人の救いのために最も貢献するのは、わたしの命であるか、死であるか、それを決定するのは、わたしではありません・・・」

 

        教会からの帰り道。

マラナ・タ

宗教改革は今も途中なのです。

人は完全ではありません。神様のための働きも「分業」させて頂いているのではないでしょうか。

ある部分では、与えられた務めをほぼ完璧にいうことなのでしょうか。