ごきげんよう!さわこです。

 

10日間の特別祈祷会9日目。

主人が風邪を引き寝込んでしまいました。

そして私は祈祷会に行くことを取りやめました。

 

クリスチャンは祈ります。

クリスチャンは祈祷会を、安息日礼拝とともに大切にします。

 

様々な条件のもとに生活していますから、

祈祷会に行きたいと願いながら行くことができない信者もいます。

 

 

信仰があり祈っていれば、すべての条件がクリアされます。

祈りはきかれます。

 

祈りがきかれないのは、悔い改めが本物でないからだ、

祈りが足りないか、祈りの的が外れているからだ、

と譴責されたらそれまでですが。

 

聖書に登場する預言者たちの迫害や試練。

そしてキリスト信仰を守るために受ける迫害や試練。

それは神様の福音宣教のための試練として、意味のある、価値のある、確かな目的のあるものです。

 

しかし、自業自得だと、原因と結果の法則だと、言われてしまっても仕方のない事柄を、

意味のあるものだと、預言者たちと同列に置いたかのような理解は如何でしょうか。

 

自分の罪を正当化し意味づけようとすることになり、虫のいい福音の受け止め方だと、

厚かましいのではないかと、問題であるという意見もあります。

例えて言えば、故意の殺人にさえ意味があるかのように受け止めることに似ているのですから。

 

 

神の赦しにはランクがあるのでしょうか。罪には大小があるのでしょうか。

預言者の試練や迫害には意味があり、弱く小さなクリスチャンの試練は自業自得であり、

そこに意味を見いだそうとするのは不遜なことでしょうか。

 

“信仰を持って祈っているつもり”に過ぎなくて、

信仰の祈りではないと見なされるような祈りさえあるのでしょうか。

 

クリスチャンになってからの私の苦しみはそこにありました。

祈りに行き詰ったこともありましたが、それでも祈らせてくださる神様の大きな御手がありました。

神様の御手の中で苦悩している私がいました。

 

“ゆだねていないから苦しいのだ”

“祈りが間違っているからなのだ”

“神様への信頼が欠けているからなのだ”

祈りが聞かれない理由は、“すべて私の不信仰に原因がある”と

”悔い改めていない偽クリスチャン“というレッテルをサタンは貼ろうとしていました。

私の信仰の大争闘の日々でした。

 

  

マラナ・タ

そんな私にとって今日の読み物はぴったりでした。

長くなりますので、今日の読み物の紹介は「つづく」