ごきげんよう!さわこです。

 

昨年の大みそかに書いた記事です。

同月に投稿した古い記事が本人に紹介されるアメブロのサービスでがあります。

書いたことも忘れていたもの、

記憶にしっかり残っているもの、

読み返して思い出すもの、

新鮮な気持ちで読み返すもの、さまざまです。

この記事も、うっすらと覚えているような気がします。

書き出しのところは端折って手直しをして再投稿します。

 

 

「険しく細い道を登ることなしに、

強さと謙遜さを備えた人間としての真の成長はなく、

神との豊かな愛の交わりを体験することはないからです。

それこそが、本当のエリートコースです。」

このように書かれている言葉を今朝、読みました。励まされました。

 

自ら望んだのではないのに、険しく狭い道を登らざるを得ない人がいる。

私はそうした青年を何人か知っています。

 

「自業自得」だとか「原因と結果の法則に過ぎない」とか、「前世の因縁」だとか、世の人はさまざまに言います。

 

生まれつき目が見えない人を見て弟子たちはイエス様にこう尋ねました。

「この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。両親ですか。」

イエス様のお答えは、このようにお答えになられました。

「本人の罪でも両親の罪でもない。神のわざがこの人に現れるためである」 (ヨハネ9:2-3)

 

願わくは、イエスによってこの人のように瞬時に治して頂きたい。

バプテスマを受けてキリスト信仰を持ったなら、すぐに問題が解決されるかと期待する人がいる。

そしてそうではなかったと知って、寂しく去っていく人がいる。

キリストのもとから去っていくのは「富める豊かな青年」ばかりではない。

困窮極まりない青年も去って行った。(現段階ではかくのごとく見えるにすぎないのだが)

 

イエス様は生まれつき目の見えない青年に向かって「神のわざがこの人に現れるためである」と言われ、そしてこの人はイエスによって目が見える者となりました。

 

この盲人の物語が聖書に記録されているのは、

困窮に苦しむ人にとって「神のわざがあなたのために現れるためである」との普遍性があるからではないでしょうか。

 

イエス様が生ける神キリストであることの証明の例話の一つに過ぎないというだけではなく、

イエスを我が神と信じる者たちにとって、誰にも該当する希望の物語ではないでしょうか。

 

私はこの物語からイエスのこうした宣言を聞くように思うのです。

 

「小さき者よ、弱き者よ、苦悩する者よ、困窮の中にある者よ。

それは、神のわざがあなたのために現れるためである」と。

 

そして、また、イエス・キリスト様は、こうもおっしゃるのです。

「狭い門から入りなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広いからです。

そして、そこから入っていく者が多いのです。

いのちに至る門は小さく、その道は狭く、それを見いだす者はまれです。」

(マタイ7:13-14新改訳)

 

マラナ・タ

今日もイエス様、あなたを呼び求めます。

あなたを待ち望みます。

「マラナ・タ 主イエスよ、来たりませ」と。