おはようございます。

ごきげんよう!さわこです。

 

今朝は快晴。東の空には日輪。

 

以前、師匠と呼んでいる人生の先輩に、

「あなたはキリスト信者として何に関心を持っていますか」

と尋ねられました。

「キリスト様との関係性です」とお答えしました。

「私、聖書と神様にしか、関心が無いのです」と付け加えると

 

「それは、あなたに会った時から分かっていましたよ。」

 

「私は、イエス様から離れては生きていけないだけです」

 

「あなたはクリスチャンの中でも

珍しい存在だと思って見ていました。

いわゆるあなたは変わりものです。

だから、あなたといるのが楽しい。

あなたから聖書の話を聞くのが面白い。

あなたが語るイエス様も聖書の信仰も、借り物でないからです。

あなたが聞いたキリストの言葉が、

あなたの内であなたのものになってあなたの言葉で語られる。

それが面白い。」

 

師匠とは私が勝手につけたあだ名です。

漱石の「こころ」で主人公がひょんなことで出会った人生の先輩を「先生」と呼んだように、

私たちの人生では、師匠や先生と呼びたくなる人との出会いがあります。

 

数年前に亡くなった姑と話している時、思わず「先生」と言って、姑が笑い出したことがありました。

「おかあさん」というつもりが「先生」。

その時の姑にそう呼びたくなるような雰囲気が醸し出されていたのかと思います。

 

    一昨日、雨の散歩道で、雨にうなだれるかのように咲く秋明菊。

    なんといじらしいこと、

 

さて、安息日学校聖書研究ガイド10月25日のタイトルは「キリストにおける人間関係」

本日のページに書かれていることを要約して紹介します。

 

キリスト教は関係の宗教です。人と神、人と人との関係の宗教です。

キリスト教は、他の関わりを持たずには存在することができません。

“霊”に満たされることのあらわれの一つが、互いに仕え合うことなのです。

これは、私たちが人々に対して持つべき謙虚さと思慮深さという適切な態度を指しています。

「謙虚さ、思慮深さ、仕え合うこと」これらは人間の生まれながらの性質ではなし得ないことです。

 

人間の心に”霊“が住んでくださる時に起きる結果なのです。

人間とキリストの関係が一致できるのは”霊“の賜物です。

 

私たちが、キリストと隣人に仕えることは、

私たちのキリストに対する敬意であり、

キリスト様の犠牲に対する敬意を表しているのです。

 

ここまではよく理解できます。しかし・・・

 

パウロは、夫婦の間に存在すべき一致、愛、尊敬が、教会に対するキリストの愛、

つまり自己犠牲の愛を体現すべきであると、強調しています。(エフェソ5:22-6:9参照)

 

それゆえ、家庭においても、教会においても、キリストのような尊敬が夫婦や教会員に求められます。

このキリストのような特質は、親と子供、雇用者と被雇用者の間でも体現されるべきです。

私たちの家庭に行き渡るべき調和と平安とが、私たちの教会生活にも行き渡らねばなりません。

 

このように書かれていることについて、責められるような気持ちになる信徒もいれば、相手を責める信徒もいます。

本人は責めているとは思ってもいなくても、聖書を自分を義とし、自分を正当化する読み方をしているなら、

パリサイ人と変わらないのではないでしょうか。

 

調和できない家庭での苦しみからの助けを求める人をジャッジする教会でいいのでしょうか。

問題を抱えているのは、キリストのような尊敬し合う精神で家庭に職場に行き渡っていないからだと

決めつけられるのも辛いものです。

問題を内に秘めて、信仰によってうまくいっていますと、取り繕うのなら、その信仰は病んでいきます。

 

今朝、ガイドに書かれていることを読みながら、見出したことは、

各自が、日々、キリスト様と個人的な関係を深めることがなければ、

聖書もガイドも十分にその働きが機能しないということです。

 

                    飼い主に信頼しているわんこには平安があります。

 

 

 

マラナ・タ

主イエスよ、今日も私の心に来てください。

主よ、あなたを信頼する信仰を求めます。