ごきげんよう!さわこです。

 

さきほど、「キリストにある一致」を投稿しましたが、書き抜かりを発見。

ということで、続として書きました。

 

安息日学校聖書研究ガイド10月10日より。

クリスチャンの一致は、

イエス・キリスト、それも十字架につけられたキリストの中にだけ見出されます

他の誰の中にも見出されません。

 

そうです!教派を超えて宗派を超えて、最重要なことは、ここ。

聖書は初めから終わりまで、ここを大切にしています。ここが福音です。

創世記3章の中に、原福音と呼ばれている箇所があります。

 

3章15 節

お前と女、お前の子孫と女の子孫の間に

わたしは敵意を置く。

彼はお前の頭を砕き

お前は彼のかかとを砕く

 

お前とは、蛇(サタン)

 

女とは 人類

 

女の子孫とは、アダムからイエス繋がる系図をざっと。

アダムー・・・―ノアーセムー・・・-アブラハムーイサク―ヤコブーユダ(嫁のタマル)

ー・・・-サルモン(カナンの女ラハブが妻)ーボアズ(モアブの女ルツが妻)ーオベドーエッサイ

ーダビデーソロモン(ダビデの姦淫の相手バテシバを母とする)

ー・・・ヨセフ(婚約者マリア、ヨセフとマリアはともにユダ族の末裔)ーイエス

 

敵意・・・聖書は、サタンと神との大争闘の物語。

 

彼とは、キリスト。彼のかかと、を砕くとは、十字架。

お前とは、サタン。お前の頭とを砕くとは、サタンの敗北

 

3章16節から19節

・・・19節

お前は顔に汗を流してパンを得る

土に返る時まで。

お前がそこから取られた土に。

塵に過ぎないお前は塵に返る。

 

3章21節

主なる神は、アダムと女に皮の衣を作って着せられた

 

創世記を単なる神話。単なる物語。フィクション。

と考えるキリスト教会もあるようです。

聖書のみ、と言いながら、そのように考えていることが、私には不思議ですらあります。

 

聖書を読むこともないままに、キリスト教を嫌っているのはどうであろうか、

とある日の午後、神様(三位一体の聖霊なる神様)に、お声をかけられ諭された、としか思えない体験をしました。

その直後、文書伝道者のご婦人が、サインズの更新にいらした。

それからが、預言の声・通信講座を学ぶことになったのです。

学んでいる時にも、教会へのお誘いはありました。

講演会だとか、クリスマス集会だとか、教会行事の案内のチラシが同封されていましたが、

「せっかくですから」と言ってお伺いすることはしませんでした。

 

なるほど、なるほど、聖書はこういうふうに出来上がっていったのか。

なるほど、なるほど、教会はこういうふうにして、信者を獲得していくのか。

教会のシステム構造が見えてきました。

思春期の時代からの筋金入りのキリスト教嫌いの私は、そういう小手先の伝道作戦にはひっかかりません。

どこまでも慎重です。

「せっかくですから、お付き合いの一つですから。熱心にお誘いされたから」

そういうことでは動きません。

 

最後の講座を学んでいる時に、

コリント第一10章13節が引用されていました。

 

私は、み言葉がイエス・キリストであることを知りました。

キリスト様が、私の心の深くに降りてこられたのでした。

 

そして、私は、誰に勧められるわけでもなく、この講座を出している教会に行ってみたい。

安息日礼拝におあずかりしてみたい。という思いに導かれました。

 

その後も、聖書研究が続き、毎安息日、教会に通いました。

そして一年後、バプテスマに与ったのです。

 

私は、聖霊様の導きの不思議を体験しました。

聖書をきっちり研究すること、学ぶこと、それは、祈りの一環だと思います。

聖書の御言葉に立つこと。

御言葉とは、イエス様そのもの。

体験をみ言葉が保証し、理解させてくれる。

 

聖書を丸ごと信じないではいられないように導かれること。

聖霊様の働きです。

 

聖書を知らないまま、キリスト教会、キリスト教国家の歴史によってキリスト教に偏見を持っていたことが分かりました。

私は世界史によって、キリスト教嫌いとなりましたが、

私の知人には、クリスチャンのお姑さんとの関係が悪くてキリスト教嫌いになった人がいます。

また、クリスチャンの母親の日常的な生き方や性質のゆえにバプテスマに踏み切れかった人もいます。

クリスチャンよりも、世の中の人の方がずっと好感が持てるわ、と言い放った人もいます。

つまり、キリスト教国家やキリスト教会や、クリスチャンが、伝道のためのつまずきとなっている場合があるのです。

地の塩、世の光となり得ていない。

香油の中に落ちた蝿になって、香水を使い物にしなくなっている。

 

「はたして、あなたはどうなのか?」と言われたならば、返す言葉もありませんが。

あなたにつまずいてしまったのよ、と陰で言われているのかもしれません。

それも仕方ないかなあ・・・その程度の私ですから。

要するに、実際的な方法に対する知恵や努力が不足しているのです。

ですから、朝に夕に、祈らずにはいられない。

 

安息日学校聖書研究ガイド10月10日より

私たちのバプテスマは、イエスの中に入ることであり、イエスだけが私たちを罪から清めることがおできになります。

しかし、私たちは、実際的な方法で、キリストにおける一致に向かって努力しなければなりません。

もし、キリストの愛と支配権が、私たちをキリスト結びつけないならば、仲違いや争いは、私たちの教会の一致も損ねうるのです。

 

 

マラナ・タ

「私たちのバプテスマは、イエスの中に入ることであり、イエスだけが私たちを罪から清めることがおできになります。」

バプテスマに与るとは、こういうことを受け入れ理解し、すがることなのだと思います。

クリスチャンの一致は、

イエス・キリスト、それも十字架につけられたキリストの中にだけ見出されます

ということが結論です。