ごきげんよう!さわこです。
 
テーマは「日常」ですが「日常」の中の「非日常」を久しぶりに味わいました。
 
今日は、前から約束していたお茶会。
と言っても、客はわたし一人。
 
わたし一人のためのおもてなし。
なんてありがたいこと。
 
友の家の庭に咲く芙蓉。
愛らしい桃色。
芙蓉に向かって、桃色なんて言ったら、芙蓉が気を悪くするかしら。
 

     

 
お茶室には、洗心、というお軸が。
花駕籠には、すすきとコスモスとたで。季節のお花が。
 
お濃い茶とお薄を頂きました。
 
お軸の「洗心」を読み上げて、
教会での儀式の一つである「洗足式」について、お話しました。
ヨハネによる福音書13章1節~17節
 
さて、過越し祭の前のことである。
イエスはこの世から父のもとへ移るご自分の時が来たことを悟り、
世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた。13:1
 
イエスは、父がすべてをご自分の手にゆだねられたこと、
また、ご自分が神のもとから来て、神のもとに帰ろうとしていることを悟り、13:3
食事の席から立ちあがって上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれた。13:4
 
茶の湯では、腰につけた手ぬぐいは、袱紗を指していると考える。
上着を脱ぐとは、神様であるイエス様ご自身が、被造物である人間の前に、
神の権威のおありであるお方が、その権威を脱いでまで、ひざまずいてくださる。
それは十字架の象徴。
茶の湯の、御亭主は、仕える者である。
洗足式・聖餐式は、イエス・キリストを通して、神の本質に迫る儀式です。
イエス様は、ご自分に倣うようにしなさい、と仰いました。
つまり、仕えて生きる生き方こそが、大切なのだと。
そのように生きる者こそ、神の国に相応しいものなのだと。
 
本来、茶会にあずかるときには、蹲で、口をすすぎ、手を洗う。
そこに、洗足式の象徴を見るのです。
 
そして、招いてくださったお方が、仕える者として、
招かれた人々をもてなしてくださる。
 
きよめられたお茶室。
えり抜かれたお軸のことば。
季節の野の花。
 
私は、ここでも、イエス様を思います。
お軸の言葉は禅語から選ばれるのですが、
禅語からは、聖書のみ言葉に誘われるのです。
 
今日の「洗心」からは、心を洗い清めよ、との神様のメッセ―ジを聞きます。
どのように、私たちは、自分の心を洗うのでしょうか。
自分の努力や、自分のがんばり、もちろん大切なことですが、
努力も頑張りも、その気持ちを起こさせ、
その力を与えてくださる神様の存在抜きでは出来ないこと。
そのことをいつも覚えておくことが、大切なのです。
 
茶花は、野の花が選ばれることが多いように思います。
「・・・野の花がどのように育つのか、注意して見なさい。働きもせず、紡ぎもしない。
しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花のひとつほどにも着飾ってはいなかった。」
マタイ6:28-29
 
「今日は、生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の花でさえ、神はこのように装ってくださる。
まして、あなたがたはにはなおさらのことではないか・・・」マタイ6:30
 
 
お道具について、ひとつひとつ、お尋ねする。
いただいたお茶名も、お詰め(お茶屋さんの名前)も、お菓子名も。
そうして、話題が広がっていき、御亭主の心配りが伝わってきます。
客である私が、大切に思われていること、つまり愛が伝わるのです。
 
そうした愛の交換、愛の共有、愛の分かち合い。
それが、もてなす側ともてなされる側に、循環していく。
心を込めたおもてなし。
それを感謝して受け取らせていただく心。
お茶会の真骨頂。
 
 
定期的にお稽古に通うことができなくなってやめてしまって三年になるかしら。
でもこうして、流派の違う茶人である友にお招きを受けてとてもうれしかった。
 
お点前の方法には、それぞれ少しずつ違うところがある。
どちらの足から入るとかも違ったりする。
 
私は若い時には、石州、空白があって裏千家、また長い空白があって、表千家不白。
 
流派によって、少しずつ違うということが素晴らしいと思うようになった。
なぜなら、人間のすることで、完全はないのだから、ということに気付かせていただくことにつながった。
自分の流派だけが正しいと思って、他の流派のお点前を見て、
あら、間違っているわ・・・クスクス、と笑ったり、批判したりするなら、恥ずかしいこと。
 
そんなことなどを語り合いながらの濃密な時間でした。
 
マラナ・タ
かつての茶の湯のお稽古を次々と思い起こし、
また、招いてくださる時を密かに期待しておいとましました。