ごきげんよう!さわこです。

 

安息日学校聖書研究ガイド9月27日より。

 

教会の宣教という観点からすれば、

使徒言行録と福音を広める歴史は、まだ終わっていない。

何世紀にも渡って、多くの章が神の忠実な証し人たちの血によって書き加えられて来た。

 

今や、私たちが最後の1章を加え、

イエスが弟子たちに託された使命を完結させる番です。

「それから、終わりが来る」。

 

 

つまり、終末に生きる私たちが

教会生活を、

自分の救いと自己実現や社交の場として

満足して安らいでいるならば、

最終章の筆は止まったままである、ということ。

どきっ とします。

              

                                川の流れが止まってしまうと・・・よどむ。

 

「教会に来ると、ほっとします。」

そのようにおっしゃる来聴者の方がおられます。

 

日常の仕事や、人間関係に疲れて、

土曜日に仕事が入ってなかったりすると

安息日礼拝に行ってみよう、と思われるようなのです。

 

その青年が、時々、いらっしゃるようになってから

かれこれ、8年。

私の友人の知人でした。

青年の心の重荷を知った友人が、

私の教会の礼拝に行くように勧めてくださったことがきっかけ。

 

教会はほっと心が休まる不思議な場所です。

 

その青年にとっては、

一杯の冷たい水。

一服のお茶。

急な痛みの時の鎮痛剤。

あるいは、精神安定剤のような働きをするのが教会なのでしょう。

 

それは、それで、大切な教会の働きの一つなのですが・・・

根本解決にはなっていないのです。

 

教会員の中にも、同じようなものを、教会に期待している方もいらっしゃいます。

「私を一時、休ませてください。」

それだけで、それ以上は進まない。

疲れるようなこと、しんどいことはできないんです・・・

あるいは、自己実現の場として、教会を見なしている方もおられます。

社会的に自分をアピールする機会が得られなかった時、

教会のボランティア的活動に代替の場を求めるのです。

「私を用いてください。あれも出来ます。これも出来ます。

私のやり方でできますから、ご心配なく」

 

そして、いつからか、さーと潮が引くように・・・

 

教会は、いろんな思いの魂を受け入れます。

受け入れと神の赦しのなかで、

神との深い関係が結ばれる機会を見過ごしてしまっては、

教会という場所に、自分の神様の実体が感じられなくなる。

 

一番大切なことは、教会は神を礼拝するところ。

聖書の預言を伝えるところ。

 

安らぎも、自己実現も、ご奉仕も、ボランティアも、付随したもの。

それらを目的としていたら、世の中にもあるそういった場所に、

より大きな魅力を感じるようになった時が、縁の切れ目・・・

 

その人の魂がイエス・キリスト様に結ばれ繋がらないままでは

最後の1章を書くことができない。

 

 

マラナ・タ

今や、私たちが最後の1章を加え、

イエスが弟子たちに託された使命を完結させる番です。

「それから、終わりが来る」。