ごきげんよう!さわこです。
「神様のご人格と情熱で私を満たしてください。」
ひとりの信仰の姉妹から、
「どのような祈りをなすべきでしょうか。教えてください」 と、SOSが入った。
「私との対話を思い返してみてください。ヒントがありませんか?
私も、聖霊様の導きがないと、すぐには、どのような祈りを、今、提示すべきか、わかりません。」
とお答えするしかありませんでした。
翌朝、「神の通訳者」ショーン・ボルツ著 を読んでいたら、
74ページ、中ほどの短いフレーズに目が留まりました。
神様のご人格と情熱で私を満たしてください。
聖霊様の導いてくださったお祈りは、これだ!と思いました。
私たちは祈る時、
自分の人格で、自分の個性で、自分の気質で、
あるいは、決まった文言で、祈ることが多いのです。
○○さんの病気を癒してください。
○○ちゃんの、受験が合格しますように。
教会行事の○○が御心にかなうものとなりますように。
私の家庭をお守りください。
○○さんが××のことでお困りです。良い知恵を与えてください。
などなど。
「・・・・してください」
「・・・・と、なりますように」
とのお祈りは際限なくあります。
それだけ、さまざまな人生の課題があり、困窮があるのです。
神様は、確かに顧てくださいます。
そして、その祈りが聞かれることによって、神様への信頼が増します。
証しとなります。
しかし、願いがかなえられなければ、「あかし」を出来ないように思い、
「かなえられたら、証をしますから、その時まで待ってください」
と、もし、言うとしたら、どうでしょうか。
願いが自分の願った形でかなえられなかったら、証とはならないのでしょうか。
そうではないはずです。
祈りが、「神様の」ではなく、自分の人格で、自分の情熱で、
祈ってしまうことがあるのではないでしょうか。
神様を支配し、神様を指図する祈りになってはいないでしょうか。
幼子の様に、無邪気な祈りを神様は、喜んで受け入れてくださいますが、
生きた信仰者の祈りは日ごとに成長するのではないのでしょうか。
もし成長しないとしたら、
自分の人格、自分の情熱、自分の要求に
基づいた祈りを繰り返してしまっているのではないでしょうか。
マラナ・タ
「神様のご人格と情熱で私を満たしてください。」