七日目ごとに来るものなあに? 

六日で世界が造られて神様がお休みになった日、聖なる日。安息日。

 

毎週、安息日は、私たちが誰なのか、どこから来たのか、どうして存在するのか

ということを、七日目ごとに思い起こさせてくれる。

 

どこにいても、安息日礼拝に与れない日でも、安息日はめぐってくる。

事情があって4年半の間、教会で安息日を過ごせない時代があった。

その時の、哀しみがあるから、安息日に教会に行けることが、奇跡のように思えて有難い。

毎週、礼拝に与れるようになって20年近くなるのに、毎回、新鮮な喜びがあるのは、

七日目ごとに、神様が私を回復させてくださるからだ。

安息日は、神様からのプレゼント。
安息日礼拝に出席できない時にも、私は安息日のプレゼントはもらっていた。

               実がいっぱいなってるナツメの木を眺めながら、川を渡る。
               練習しているカヌーを見るようになった。
               先週はこの時間には見なかったなあ。
アブラハムも、イサクも、ヤコブも、ヨセフも・・・モーセも、
ダビデも、ソロモンも・・・
それぞれ、素晴らしい信仰者であったのに、人間としての欠点も持っていた。
同じように、欠点のない人など存在しない。
イサクがエサウを愛し、リベカがヤコブを愛した、と知った時、
親が偏愛することを、非難することを手放した。
悲しいことだけれど、仕方がない…と認めることにした。
それが人間の弱さなのだと。
 

弱さゆえの様々な行為のもたらす理不尽さに、苛立ってどうなる?
そこから、何を見いだす?
そこから、何を学ぶ?
神様に赦されて、生かされている自分を知った。
 
イスラエルは、ヤハゥエを信じる民であったのに、安息日を軽視するようになった。
日本の民は、安息日(十戒第4条)を知らなかったけれど、5条以下は、民族性の中に生きている。
 
安息日を守らなくても、他の日を守りながらもイエスのうちにある休息を見いだしている信仰者もいる。
安息日を守りながら、神の愛に生きていない信仰者もいる。
 
恵みの猶予期間のうちに、悔い改めていない魂を、神様のもとに立ち帰らせてくださいますように。