ごきげんよう!さわこです。

 

EGホワイト著『キリストへの道』 より

 

過去の生涯の不愉快な思い出、罪や失望ばかりをかき集め

そのことを語り、悲しんでついには失望してしまうことは 

決して賢明なことではありません。

失望した魂は暗やみに おおわれ、

心から神の光を閉ざしてしまい、他の人々の行く 手にも陰を投げかけます。

 

しかし、神が描いてくださった輝かしい光景を感謝いたしましょう。

私どもは神の愛の確証を 集めて、つねにそれをながめるようにいたしましょう。 

 

 

不愉快な思い出をかき集め語る。

それが、習慣になっている。

それが癖になっている。

そういう思考回路に、いつの間にか陥っている。

 

そのことに気づいていない人がいる。

(私もかつてはそうだった)

自分の不幸話を、競争のように語りあう事は、信仰の証しと言えるのか。

 

 

自己憐憫に浸ることで、自分の存在感を確かめようとする傾向。

そして、自分が罪びとであり、キリスト様を必要としていることを確認する。

 

その繰り返しって、どうなのだろう?

 

救われるべき存在である事実を、

自分の惨めさと、自分の過去の不幸とリンクさせ続けなくては

受け入れられない。

「かわいそうな私を神様、顧みてください!」

という祈りのスパイラルのようだ。

 

自分を責めがちな人は、神様に向かう条件が、

罪人で居続けること、かわいそうな自分で居続けることであるかのように錯覚してしまうこともある。

 

 

自己憐憫に陥る時は、誰かのせいでこうなったのだと、誰かを責めているのかもしれません。

自己憐憫は誰かへの憤りの裏返しかもしれません。

 

いつまでも憤りを抱いていれば、サタンに心を支配されることを容認してしまうことになります。

まといつくサタンの手管を一つ一つ、即座に断ち切って恨みは手放す選択をしましょう。

 

祝福を取り戻すのです。

 

マラナ・タ

ヤベツのように祈りましょう。

「主よ、わたしを大いに祝福してください」と。

             (歴代誌上4:10)