ごきげんよう!さわこです。

 

ミカ書5章はキリストの誕生を最も明確に預言している。

 

 

ベツレヘム、エフラテよ。

あなたはユダの支族の中で最も小さいものだが、

あなたのうちから、わたしのために

イスラエルの支配者になる者が出る。

その出ることは、昔から、

永遠の昔からの定めである。

 

                   ミカ5:2

 

エフラテとは、ベツレヘムのある地域である。

支配者とは、救い主イエスのこと。

ミカは、イエスが生まれる数百年前に、キリストの誕生の地を正確に預言した。

ダビデの地を引く救い主である永遠の王は、人間として生まれるが、

すでに永遠に生き、その始まりは、はるか遠い永遠の昔にある。

永遠の存在でありながら、キリストは、人間の歴史に、ナザレのイエスという人間として誕生した。

                                     (バイブルナビ聖書、注釈より)

 

このように、旧約聖書に、救い主がナザレのイエスであることは、記されている。

そして、イエスご自身が、こう言われているのです。

ヨハネによる福音書5:39、40

「あなたたちは聖書の中に永遠の命があると考えて、聖書(旧約聖書)を研究している。

ところが、聖書は私について証しをするものだ。

それなのに、あなたたちは、命を得るためにわたしのところへ来ようとはしない。」

 

日本人はキリスト教圏ではないから、

「旧約のミカ書に、こう書かれている。

新約のヨハネによる福音書に、こう書かれている。」

などと、解説されても、ピンとこないのが普通だろう。

 

キリスト教文化圏で生まれ育った人は、神様と言えばイエス・キリストとして教えられ、

その雰囲気の中で生きてきたのだから、何の違和感もなくて当たり前なのだ。

 

また、ユダヤ人になると、聖書(旧約)を暗誦し、教えられて来ているから、

メシア(キリスト)の存在を知っているし、待ち望んでいるのだ。

まだ、メシアは来ていないのだが、待ち続けている。

そして、そのメシアがナザレのイエスであるとは、思っていない。

一致していない。しかし、ミカ書の預言は知っている。

 

一般的日本人は、予備知識、大前提となる知識がないから、

クリスチャンに、ミカ書5:2、ヨハネ5:39を引用されても、分かるはずはない。

 

しかし、不思議な導きで(ご縁があって)イエスを、我が神と信じた人は、

信じて読むから、信じて学ぶから、違和感もなく素直に浸透していくのだ。

 

 

私は、キリスト教が嫌いだったし、キリストを我が神と受け入れる気もなかったし、

ただ、聖書も読まないでキリスト教を嫌っているのは、フェアじゃない、と

ある日、突然、気付いたことが始まりだった。

 

その直後、文書伝道者のご婦人がチャイムを鳴らしたのだった。

 

私は、親戚のSDA教会員の紹介で、(お付き合いで断れなくて)

「サインズオブタイムス」を購読するようになって5年経っていた。

毎年、春になると、購読継続更新の手続きのために文書伝道者のご婦人はおいでくださる。

私が聖書を購入したいと言うと、その方は

「一人で聖書を読んでもわからないから、通信講座と並行して読むとよい」

と教えてくださって、行きがかりで「預言の声・聖書通信講座」を学ぶようになってしまった。

 

「聖書を買いたい」と言っているのに、

「買わなくてよい。教会の聖書を貸してあげるから」と

教会のスタンプを押してある口語訳聖書と講座を置いて帰られた。

 

キリスト教嫌いで、クリスチャンになる気もないし、教会に行きたくもない私だった。

マクロビオティックの玄米正食通信講座、東城百合子さんの「自然と共に生きる」通信講座を学んできていたから、

その延長線で、次は「聖書通信講座」の番が来たくらいにしか思っていなかった。

 

天文学が専門の大学教授山形俊夫先生によって作られた通信講座だった。

数か月、学んで、いよいよ終盤になったとき、私は生ける神であるイエス・キリスト様に出会ってしまった。

「聖書は私について証しをするものだ」

イエス様の仰るその言葉を読む前に、

聖書のみ言葉はイエス様ご自身であると体験してしまったから、瞬時信じてしまった。

神様によって信じさせられてしまった、としか言いようがない。

 

通信講座の最後の答案用紙に「11月〇日、教会を訪問いたします」と書きこんで投函。

自分の指定した日時(その日は覚えていない)に訪問した。

そして新しい年になったのを機に、安息日学校・安息日礼拝に出席するようになった。

毎週、真面目に出席するものだから、ある日、牧師から「バプテスマを受けませんか」と電話があった。

その場で「はい、よろしくお願いします」と返事をした。

そして、1990年10月20日。私は、嫌いだったキリスト教徒になった。

教会に始めて行った日から1年も経っていなかった。

聖霊の神様の業のすごさを体験してしまった。

 

「聖書も読んだことが無いのにわたしを嫌っているのか」

と私に語り掛けたお方の存在があったことから、すべては始まった。

聖書を学ぶことから、はじまった。

教会に行くことも、教会行事に参加することも、教会員との親しい交わりを持つこともないままに

7か月間聖書の基本を学んだ。

そして聖書の御言葉によってイエス様に出会った。

出会ったら、その通信講座を出している教会に行かないではいられなくなった。

 

私にとってのキリスト信仰の道は「聖書を学ぶ」ことから始まった。

聖書の言葉は聖書で確認する。

そして、信じる心が引き上げられて行く。

 

しかしキリスト教を信じていない、信じたくない、そんな気持ちで聖書を学んでいたのに、

どうして神様は私に信仰を与えてくださったのだろう。不思議でならない。

 

やがて、聖書からその不思議に対する答えを見出した。

 

「わたしに尋ねようとしない者にも

わたしは、尋ね出される者となり

わたしを求めようとしない者にも

見出される者となった。

わたしの名を呼ばない民にも

わたしはここにいる、ここにいると言った。

                       イザヤ65:1

 

 

ユダヤ人でもなく、キリスト教文化圏の人種でもない私には、聖書の言葉は、まだまだ分からないことが多い。

「神さま、わかりたいです。分からせてください。」と祈りつつのクリスチャン人生だ。

分かりたいから、年表をつくる。系図をつくる。地図を眺める。日本史世界史の年表と照合する。

聖句のことは、聖句で引く。良き解説書を愛用する。

そして、日本人としての感性や価値観で共感もする。

 

マラナ・タ

ミカ書5章を読みながら、自分のことを書いてしまった。

通読日誌があかしになてしまった。

どうしてここまで、聖書の神様に捕えられてしまったのだろう、わたし。