ごきげんよう!さわこです。

 

 

神は私たちが出来ること以上の捧げものは期待しないが、

自ら進んでささげるとき、祝福を与えてくださる。

十分の一は、重荷と感じる人もいれば、ごくわずかだと言う人もいる。

あなたが持っているものを見て、与えられた分に応じてささげることだ。

(バイブルナビ聖書 注解 16:16,17)

 

「あなたの神、主が賜った祝福に応じて、

それぞれ自分のささげものを持って出なければならない。」申命記16;17

ここで、思う。
イエス様にほめられたレプタ二枚をささげた寡婦の話。
それは、今でいえば一日の賃金にも満たない額。
時給にも満たない額。4~500円くらいだろうか。
寡婦の持っている全額だった。
 
彼女は、その日の食事はどうしたのだろう。
自分一人なら、ひもじさをがまんして、
その我慢も主のお苦しみに与るためだとがまんでしたのだろうか。
もし、子どもを養っていたら、その子供にも、
神様におささげした事を話をして、喜ぶようにと言っただろうか。
カラスがパンと肉を運んできてエリヤを養った話をして、
「まもなく、カラスが届けてくれるよ、心配することはない」
と言って一緒に神様を讃えるのだろうか。
 
イエス様は、そういうことのオススメとして、レプタ二枚をささげた寡婦をほめられたとは思えない。
神様は、無い者から搾り取るようなお方ではない。
しかし、実行して、思いもがけない所から、お米や野菜が届いたという証しを聞いたことがある。
 
マラナ・タ
聖書の読み方も、聖霊様のお導きに拠って読むのだが、
与えられた分に応じて理解でき、実行できるのだろうか。