ごきげんよう! さわこです。
おはようございます。
 
今朝、信仰の友から、届いたライン。
「・・・自分だけの思いに囚われておりました。
昨日の講演会自分の思いで聞いていると、誤解解釈してしまって、
講師の牧師先生に、配慮のない質問をしてしまったの。
帰宅してから、講演内容を再度吟味していたら、気づいたのよね。
自分の思い込みだったことに」

 

昨日、夕方からの講演会。三日目。
涼しい夕風を受けながら、自転車で。
青銀杏を見上げ
                    河を渡り、
 
教会に到着しました。6時半から7時半まで。
一日目は「人に与えられた幸せの原則・十戒」
二日目は「この教会は、なぜ土曜日に礼拝するの?」
そして、三日目「この世の怪しげなものの正体」
私は、残念なことに、彼女の質問を聞いていなかったのだけれど・・・
「思い込みに囚われていた」
その短いフレーズで、デボーションの扉が開かれた。
さすが、文筆家で詩人の彼女。

 

 

 

彼女の才能や彼女独特の体験が、彼女を魅力的に構成している。

しかし、彼女の知性・感性が彼女を惑わすことがある。

彼女の体験が彼女を支配することがある。

 

私たちにとって、かけがえのないもの。

私だけのもの。

それらが、一枚、また一枚・・・私たちの目の鱗となっていく。

 

はっと気づいた、彼女の「自分の思い込み」。

クリスチャン26年生の私には、これこそ、聖霊様のお導き、だと思う。

 

「ほらほら、さわこちゃん。あなたはなんでもかんでも、神様に根拠をもっていくのね。

あなたの思考パターンよ。でも、そんなあなたがおもしろい。」

と、受け入れてくれるノンクリスチャンの友がいる。(有難い)

 

 

聖霊様の風が吹くと、雲が飛んでいくように、

聖霊様の促しに応えるとき、

心の目が開ける。目からうろこが落ちる。

神様が、耕してくださった土地に、イエス様が種を蒔いてくださる、

陽を照らし、雨を降らし、芽生える。

 

人は、なかなか、自分の思い込みに気づかない。

気づこうとしない。

自分を否定されるようで、自分の人生を軽んじられるようで、自分の知性を認められないようで。

 

気づくこと、すごいこと。

認めること、すばらしいこと。

 

問題は、それから。

自分の思い込みを、手放しておきながら、また、拾うこと。

手放して、拾う。また、手放して拾う。

延々と、その繰り返しをさせるように、サタンは、今の今も励んでいる。

 

私たちは、手放したとき、問題は解決したと思う。

自己の縛りから解放されて、新しいステージに立ったと思う。

 

そうではないのだ、サタンは、そうは問屋はおろさない存在だということを忘れてはならない。

サタンは、私よりもはるかに強い。

しかし、神は、サタンより完全に強くあられる。

 

神 〉 サタン 〉 私

 

私が神と一つになっているなら、私はサタンに勝利できる。

 

手放しては、「おい、拾えよ。それはあなたの人生の証しじゃないか。」

いろいろな記憶・思い・世の価値観を思い起こさせ、

早まったかな?早まったよな?

正しいものはひとつじゃない。

みんなちがって、みんないいんだよ。

 

そして、また拾う。

 

その繰り返しが、人生さ。

その繰り返しが、あなたを人間として成熟させるのさ。

そういうまことしやかな、甘い言葉をささやく。

                アダムとエバは、いちじくの葉で、裸を被った。

 

 

自己否定ではなく、自己承認。

サタンは巧みに意識操作をする闇の世界のカウンセラー。

光の天使を装う名人。

 

そうして、私たちはかたくなになっていく。

聖書、出エジプト記、エジプトのファラオを

「かなくなである」「かたくなになった」  繰り返し、出てくるフレーズ。

 

正確には「主が、ファラオの心をかたくなにされたので」とあるから、

あたかも人がかたくなになるのは、神の意志であるかのように、読む者は誤解してしまうのだ。

 

神は、ファラオだって、願わくば救いにあずからせたいと願っておられるのだろうが、

そのチャンスをいくら提供しても、「捨てては拾い」を繰り返していくと、かたくなになる道しか残らない。

 

「今、気が付きました。私の思い込みを棄てました」と決意し、告白した時から、

サタンはさらに巧妙に誘惑を仕掛けて来る。

 

油断してはならない。

どうすればいい?

神に従いさえすれば、いいのだ。

 

神によろこんで、自分の意志を、神に明け渡せる方法。

神は十戒をくださった。

神は聖書をくださった。

神は安息日をくださった。

何よりも神御自身、イエスをくださった。

十戒も聖書も安息日も、イエスそのもの。

 

十戒(律法・トラー)聖書、安息日。

すべてイエス様そのもの。

つかの間の、一瞬の、喜びも、感謝も、

神様の御手の中で、永遠の喜びと感謝に変わる。

安息日を守り、毎日、御言葉を読み、聴く、語る。

 

それを怠っても、イエス様を信じてさえいればいいのよ、だろうか。

瀕死の状態の人や、重病人、重い障害を抱えている人、様々な状態でしたくても出来ない人もいる。

そんな事情で、聖書を読めない人は、救いからもれるのか?

否、神様はそれぞれの状態を御存知だ。

 

できるのに、しないための言い訳、自己正当化を、悲しまれるのだ。

緊急時には激しく怒られるのだ。

 

友からのラインで、

私の今朝のデボーションは恵まれた。

つかの間の一瞬の感謝と喜びに安住しては危険だ。

一度、自我を手放しさえすれば、神様に献身したと思うのも自分勝手だ。

一度、悔い改めたら、大丈夫なのか?

日々の悔い改め、神の御心に適う喜び、感謝。

聖なる神様との関係を継続し続ける。

 

マラナ・タ

聖と俗を、自分の都合次第で使い分けるようないいかげんさや狡さを、永久に手放したいと願う。