バプテスマのヨハネは、なぜ、あれほどの残酷な仕打ちを受けたのだろうか。
なぜ、イエスは助けに行かなかったのだろうか。
天使が、ペトロを牢獄から救い出したのなら、なぜ、バプテスマのヨハネは見捨てられたのだろうか。
なぜ、なぜ…・・・何故の理由を知りたいと思うのは私だけだろうか。
 

 

EG ホワイトの「希望への光」780ページ(各時代の希望 上巻278-281ページ)から、
EGホワイトが、神からの霊感を受けて、書かれた書物には、疑問への答えがあった。
 
 
多くの人々の心にとって、バプテスマのヨハネの運命は、深い神秘につつまれている。
なぜ、ヨハネは牢獄の中で衰弱し、死ぬままに放っておかれたのか。
人間の目では、この暗い摂理の神秘を見通すことはできない。
 
しかし、ヨハネはキリストと苦難を共に下に過ぎないのだということを覚えている時、
神に対する神に対する我々の信頼は決して動揺させられることがない。
 

キリストに従う者は、みな犠牲の冠をかぶるのである。
利己的な人々からは誤解され手サタンの烈しい攻撃の的となる。
バプテスマのヨハネを、神に対する完全な献身の生活から引き離そうと、サタンは根気よく努力したが、失敗だった。
イエスは、忠実なしもべ(バプテスマのヨハネ)をお救いになりたかった。
にもかかわらず、なさらなかったのは、
ご自分を敵の手に渡して、その使命を危険にさらさないためであった。
その使命とは、聖書(旧約)に預言されている十字架の贖いである。
 

イエスが、ご自分のしもべ(バプテスマのヨハネ)を救い出すために手をお出しにならなかったのは、
ヨハネが牢獄で試練に耐えることをご存知だったからでもあった。
後年、牢獄から死へ移らねばならない幾千の人々のために、
ヨハネは殉教の杯(さかずき)を飲むのであった。

イエスに従う者たちが、神と人とに捨てられたように見えながら
一人寂しく獄舎の中で弱り果てたり、
剣や拷問や火あぶりの刑で殺されたりする時、
バプテスマのヨハネが同じような経験を味わったことを思って、
どんなにか支えられることだろう。

 

 

ヨハネに奇蹟的な援助は与えられなかったが、
ヨハネは見捨てられたのではなかった。
彼は、いつも天使たちを友としていた。
天使たちがキリストについての預言と聖書の約束を、彼の前に開いた。
それが、彼の心の支えとなり、それはまた、その後の時代の神の民の支えとなるのであった
 
「あなたがたは、キリストのために、ただ彼を信じることだけでなく、
彼のために苦しむことも賜っている」 ピリピ1:29
     天が人に与えることの出来る賜物の中で、
     キリストと共にその苦難にあずかることは、最も重い信任であり、
     最高栄誉である。