ごきげんよう!さわこです。

わたしの今朝の空。

 

 

 

 

 

今週の暗誦聖句              
「わたしたちは、主イエスの恵みによって救われると信じているのですが、これは彼ら異邦人も同じことです」
使徒言行録15の11   
 
 
イエスを信じなくても、
心に記された神の愛に応えて善行を行い、世の中で正しく生きているなら、
神の厚意を受けるのは当然だと思っていないだろうか。
 
イエスを信じなくても、神の真理を求めているなら、
神に覚えめでたいのだと思っていないだろうか。
 
イエスを知る機会が一度もなかった人の場合。
イエスを知る機会があっても、信じることを拒む場合。
 
 
「いい教えですね」
「教会に来るとほっとします」
「教会の雰囲気は天国のようです」
「私は教会に来るようになって『ゆだねる』ことを学びました。
いいですねえ、ゆだねるって。」
 
「教会に来るようになって感謝を知りました。」
「教会に来るようになるまでは、食前にお祈りをすることをしていませんでした。」
 
私は、こういう発言を不思議に思う。
まさか、今までの人生の中で心からのありがとうを言ったことが、なかったはずはない。
まさか、『いただきます』を言わずに、『ごちそうさまでした』も言わずに、三度の食事を頂いてきたはずはない。
「ありがとう」
「いただきます」
「ごちそうさま」
「おかげさまで」
 
「おてんとうさまがみておられるよ」(神様を仰ぎ見ること)
「胸に手を当てて考えてごらん」(反省を促して悔い改めにつながること)
 
そして、恥じらいを込めた静かな微笑み。
何も言わないで目を閉じて手を合わせるつつましやかなしぐざ。
 
日本人の日常の中に、信仰心が織り込まれていることに気づこうとしないのだろうか。
 
「キリスト教会に来るまで、知らないことばかりでした」
と聞くと、居心地が良くなくなる私。
 
それは、「キリスト教会に来て、クリスチャンの方々とのお交わりがうれしいです」
ということを、「自分は無知蒙昧でありました」、と表現しているだけかもしれない。、
そして、自己否定や謙遜な気持ちに突き動かされるようになってきた故の発言かもしれない。
 
しかし、違和感ついてまわる。
 
あるお母さんが言いました。
「娘は、食前の祈りを嫌がるのです。
長いの長いのきらい、って。
神様への感謝を学ばせる、宗教教育の大事な機会ですのに、
感謝を知らない人になってもらいたくないのです。
イエスさまを信じる人になってもらいたいのです。
私は娘と一緒に天国に行きたいのです」
 
熱い願いを込めた祈り。
それは、その人の密室の祈りでささげる方がふさわしいのではないのか。
 
おなかをすかせた子どもが、「長いお祈りってきらい」と不満を持って食卓で待っている。
どこか、ちがうのではないか。
 
「いただきます」
短くて、大きな祈り。
日本人の誇り。
キリストの精神が詰まった祈り。
 
「ごちそうさま」 も
「ありがとう」 も
「おかげさまで」 も
 
短くて大きな祈り。
 
神様はむかしむかしから、
日本という地に福音の種を蒔いてくださっていた。
 
私は、聖書を学びはじめたとき、
キリスト様は、すみやかに私をとらえてくださって、
今までの人生の中に、キリスト様が共におられたことを、
ひとつずつ、ひとつずつ、見せてくださった。
キリストを知った時、昔からの記憶や日本人としての当たり前のことが、符合するのではないだろうか。
 
 
教会は好きです。
クリスチャンの皆さんとの交わりも好きです。
お礼拝に与るようになってから、変わって来たと、言われるんですよ。
ここまでで十分です。
そう言って、眠りについて行かれた、何十年という万年求道者を何人か知っています。
 
マラナ・タ
そういう方々のために、私は出来ないことばかり。
しかし、イエスの御名により、聖霊様の導きを祈る道があります。