イエスの私たちへの1番の関心は、私たちの霊的な状態である。

 

いくら祈っても祈っても、きかれない祈りがある。
私たちや愛する人を神が癒やしてくださらないことがある。
癒やされなかった人が特別に罪深かったからだろうか。
癒やされなかった人の悔い改めは本物ではないからだろうか。
癒やされた人は神に愛され選ばれた人だからだろうか。
 
さまざまな憶測が心を駆け巡る。心には激しい嵐が吹きすさぶ。
 

肉体的な癒しが、キリストの唯一の関心事ではないことを覚えておく必要がある。
私たちはキリストの御国では完全に癒やされる。
この地上にはまだキリストは再臨しておられない。
 

 
キリストを我が主、我が神、我が救い主と信じる心にはキリストは来てくださっているが、
だからと言って、
切実な祈りが自分たちの願うカタチできかれるわけではない。
 

 
悲しい、切ない。信仰が消えてしまいそうになる。
不治の病と宣告された病が癒やされました・・・
かくなる種類の証を聞く時、
あの人には信仰があったからだ。
あの人には信仰の人の祈りがあったからだ。
私の信仰は信仰と言えるようなものではなかったことが
今、証明された。
神に見放された・・・
見放されても当然な信仰だったのだ、きっと。
 
救われる人は前もって決まっている・・・そういう神学を聞いたこともある。
喜ぶ人達のそばにいる苦しみ。
疎外感。
見棄てられ感。
 

からだの癒し、問題解決。
それらよりも先ず、イエスを知ることを求めよう。
イエスを知っている、信じているからバプテスマを受けてクリスチャンになった………
と言うかもしれない。
 
 
 
でも、もっともっと、イエスを知りたいと思わないか。
もっともっとイエスに近づきたいと願わないか。