ごきげんよう!さわこです。

「信じて祈るならば、求める者は何でも得られる」マタイ21:22

この祈りを掲げて、「信仰が足りない、祈りが足りない、祈りへの本気度が低い」などと、

ある人がある人を苦しめ追い詰めたケースもあります。

この御言葉によって、クリスチャンの祈りは必ずきかれるというふうに思ってはいないでしょうか。

きかれない(かなえられない)のは、祈る側の人間に原因があるからではないだろうかと自己吟味が始まる。

そして、そういう目線で聖書を読むならば、次々と見つかります。

 

偽善者であるからだ

よこしまな心で祈るからだ

くどくどと祈るからだ

人の過ちを許していないからだ

人にしてもらいたいと思うことを何でも人にしていないからだ

求め方が足りないからだ

良い実を結ばない悪い木であるからだ

神の御心を行っていないからだ

信仰が足りないからだ

信仰が薄いからだ

自分を低くしていないからだ

幼な子のような素直さが無いからだ

神への愛、隣人への愛が足りないからだ

小さい者の一人にするという善行を行っていなかったからだ

願いそのものが神の御心にふさわしくないからだ

自分の罪を言い表していないからだ

清められていないからだ

聖霊の導きによって祈っていないからだ

神の言葉を実践していないからだ

人への憐れみが無いからだ

行いの伴わない信仰だからだ

間違った動機で祈るからだ

為すべき善を知りながらそれを行っていないからだ

正しくないからだ

招かれる者は多いが選ばれる者は少ない

心を尽くして神を愛していないからだ

隣人を自分のように愛していないからだ

右の頬を打たれて左の頬を出さなかったからだ

 

まあ、あげれば際限なく、聖書から反省材料は見つかるのであります。

 

以上は神の戒め、神の律法を具体的に示されたものなのです。

書き出していくに従って私は気持ちが沈んでいきました。

祈りは聞かれなくても当然なのだという思いに行きつきました。

罪の自覚が鋭く迫るばかりなのです。

どれひとつとっても、人間は達成できないのです。

要するに罪人であるとの宣告であります。

 

しかし、上記した聖句を覆す聖句もまた随所に見つけることができるのです。

その一つがマタイ9章12-13節

「イエスはこれを聞いて言われた。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。

『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』とはどういう意味か、行って学びなさい。

私が来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである

 

イエス様は、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためにこの地上にお降りになった。

これが聖書の主題。福音です。

 

罪人に関しては、ローマ3章9-12節にきっぱり書かれています。

「では、どうなのか。わたしたちには優れた点があるのでしょうか。全くありません。

すでにしてきしたように、ユダヤ人もギリシャ人も皆、罪の下にあるのです

つぎのように書いてある通りです。

「正しい者はいない。一人もいない。悟る者もなく、神を探し求める者もいない。皆迷い、だれもかれも役に立たない者となった。善を行うものはいない。ただの一人もいない。」

 

同じくローマ3章20節21節には

「律法を実行することによっては、だれ一人神の前で義とされないからです。

律法によっては、罪の自覚しか生じないのです。

ところが、今や、律法とは関係なく、神の義が示されました

すなわち、イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です。

 

神様に救って頂かない限り、人は一人では正しくあることはできない。正しく生きることも出来ない。

人間は、エデンの園でサタンの誘惑を受け入れて以来、今に至るまで罪の下にあるからです。

 

つまり自分が罪びとであるという現状を認め、神様に告白し、罪から離れたいという願いも申し述べる。

それを悔い改めと言います。

そして神様は憐れんでくださり、その罪の縛りからの解放してくださるのです。

イエス・キリストを信じる者は新生される。

そして出来ないはずのことが、キリスト様から注がれる愛への応答としていつのまにか出来る者へと変えられて行く、

それが聖化、信仰の成長、イエス様の似姿に変えられて行くということになるのだと思います。

 

バイブルナビには、マタイ21:22の節について、以下のように書いています。

この節は、イエスに求め、信じれば望むものが何でも手に入るという保証ではない。

人を傷つけ、神の御心を汚す願いを、神は聞き入れてくださらない。

祈りがかなえられる前提として、私たちの願いが神の国の原理に調和していなければならない。

信仰が強ければ強いほど、私たちの祈りは神の御心と一致する。

 

マラナ・タ

人を傷つけ、神様を汚す願いとはとても思えない願いが聞かれないことも多いのです。

家族や大切な友がイエス様を信じる信仰を持ってほしいという願いが身勝手でしょうか。

また、子供を授かることを願う人には生まれず、願いもしない育てることもできない人には生まれます。

罪が入った世界だから、理不尽が通るのでしょうか。

神の思いは高すぎて、人にははかり知ることができません。

かなえられない願いを持つ人の切ない祈りを神様は、思いもがけない方法で顧てくださると信じます。