主よ、私に清い心を作ってください。詩篇51:10
 
なぜ、そう祈らぬ。
なぜ、それを求めぬ。
心を不愉快な記憶に向けて、
自ら、そこに留まっている。
 
まるで、ベテスダの池の男だ。
イエスが「良くなりたいのか」と聞かれたのに、
「だれも、私を池の中に入れてくれる人がいないのです」としか答えない。
 
質問と答えがかみ合っていないではないか。
しかし、男は、自分の愚痴に留まらなかった。
「起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい」
というイエスの言葉に即座に反応した。
イエスの言葉を否定しなかった。
 
もし、男がこう言ったなら、どんな展開が待っていただろうか。
「起き上がれないから、苦しんでいるんです。
床を担ぐ力が無いから、ここに38年間横たわっているのです。
あなたの言葉は私を苦しめているとわからないのですか。
あなたが私を池の中に連れて行ってくれるべきでしょう。」
 
「おお、そうか、私はあなたをさらに傷つけただけだったとあなたは責めるのか。
私の言葉を拒む者には、私は無力だ。  では、さようなら。」
と、去っていっただろうか。
 
聖書には、イエスの招きに応えなかった人の記録も書かれている。
金持ちの青年がそうだった。
「イエスの言葉に気を落し、悲しみながら去っていった」と。
       (マタイ19:16-30、マルコ10:17-22、ルカ18:18-30)
イエスは悲しいまなざしで、青年の後姿を見送ったとは、書かれていないが・・・
私は、推測できる。イエスの悲しみが。
 
「良くなりたいか。」
 
「はい、良くなりたいのです。
病んだ私を清めてください。」
 
「では、起きて、床を担いで歩きなさい」
 
ペテロは一晩中、魚が捕れなかったにもかかわらず
「せっかくですから」と言って、網を湖におろした。
そこで、船いっぱいの魚が捕れたのだった。
ペテロは、半信半疑でも、イエスの言葉に従った。
ベテスダの池のほとりに横たわる男も、イエスの言葉に従った。
 
主よ、私は良くなりたいのです。
私は清くなりたいのです。
主よ、私に清い心を作ってください。
 
この祈りを持ってイエスのもとに行こうとしない人のなんと多いことだろうか。
うんちくを言って、イエスのもとに行こうとしない言い訳をする人のなんと多いことだろうか。
ご再臨は近い、と聞くと嘲笑う人のなんと多いことか。
 
選ぶのは、聞いた人です。
その人の選択の意志には、関与できない悲しみがある。
 
マラナ・タ
イエスの言葉に従う選択ができますように。
それは、他者にしてもらうことではない。
イエスから目を背けているなら、その心はかたくなになる。
イエスに目を向けるなら、文句も愚痴も祈りとして変えられて行く。