おはようございます。

ごきげんよう!さわこです。

今朝のデボーション。

 

5時半に愛犬と散歩に出ました。

聖書通読も「今日の光」もまだ読んでいません。

書かれた文字によって啓発されるのではなく、

今までの信仰生活の中で文字に書かれた御言葉によって蓄えて頂いた中から主がくださったテーマでのデボーションでした。

 

「御言葉」はロゴス、「言」はレーマ。

その区別が私の中ではっきり見えてきました。

御言葉も言も、イエス・キリストそのものでありますが、御言葉は文字で書かれて普遍性を持ちます。

聖書やトラクト、信仰の書として印刷され世界中にばら撒かれ散らされ、「名言」や「道徳」「普遍的な愛」としてあらゆる人に真実の聖書の神を示されます。

 

「言」であるイエスは一人一人の心と魂に浸み込んでいき、

溶け込んでいき、生ける神の命とな、その人の霊を覚醒させ、個人的な関係を結んでくださいます。

書かれた聖書の言葉は、ともすれば前後の文脈から離れて独立して伝えられることがあります。

そして聞く人や語る人の心情や知性やイデオロギーとして変質されてしまうことも起きます。

 

その時、御言葉は人間の言葉に過ぎないものとなとなるのかもしれないと思ったのでした。

私たちは御言葉であるロゴスがレーマとなって私のものとなって、今日の生かされる命となっているだろうか。

SDA神学に詳しく、また沢山の御言葉を蓄えている信徒がいます。

信徒が聖徒とされるにはロゴスがレーマとして今日も基督信者に臨んでいるかではないだろうか。

キリストのいのちの通っていない、あるいはすごく薄められたいのちになっていないだろうか。

ぶどうの木につながっている枝が折れてはいないか。

近くで見たら折れて繋がっていなのに、遠くから見たり、別の角度から見たら、さも繋がっているかのように見える枝がある。

私はどうだろうか。自己満足・自己義認の信仰者として闊歩してはいないか。

 

マラナ・タ

「ああ、主よ、今日もあなたにつながらせてください。あなたから離れては、私は生ける屍にすぎません。」