ごきげんよう!さわこです。

マラナ・タ18「キボウのトビラ」エア集会ブログ上で始めて8回目。

 

4月16日から、聖書通読新約はコリント人への第一の手紙です。

2章と3章を読んだ時、私は、ここを伝えたいと思いました。

 

さわこのエア集会ですから、まったく自分の思いのままに展開していきます。

思いのままと言っても、私の自我の思うままといった傲慢なものになってしまってはなりません。

イエス様の十字架を掲げて、イエス様のこの世に生きられた歩みに私の思いを結んで、イエス様のご再臨を待ち望む心を、父なる神様にお捧げして、

「このエア集会の主は神様あなた様です」と、砕けたこころをくださいとひれ伏し願います。

 

それでも、私の我が、支配しようとするかもしれません。

サタンが私の弱点を狙ってくるかもしれません。

「父なる神様、助けてください。聖霊様、導いてください。イエス様、インマニエルの神として共にいてください。」

 

2:1「さて、兄弟たち、私があなた方のところへ行ったとき、私は、すぐれたことば、すぐれた知恵を用いて、神の証しを宣べ伝えることはしませんでした」

 

すぐれたことば、すぐれた知恵とは、パウロは何を意識して言っているのでしょうか。

 

コリントの町は、ギリシアにあります。

つまり、ギリシア哲学でしょうか?

ソクラテス・プラトン・アリストテレス。

古代ギリシャ哲学者たちはイエス様よりも300年以上前に生きた人々です。

 

パウロがギリシャのアテネに行ったときギリシャの人々に語りかけています。

「アテネの皆さんあらゆる点においてあなた方が信仰のあつい方であることを私は認めます。道を歩きながら、あなた方が拝むいろいろなものを見ていると『知られざる神に』と刻まれている祭壇さえ見つけたからです。それで、あなた方が知らずに拝んでいる者』それをわたしはお知らせしましょう・・・」(使徒言行録17:22-31参照)

 

ギリシャはアレキサンダー大王の死後、4つの国家に分かれ、そしてイエス様やパウロの時代には、ローマ帝国の支配下にありましたが、ギリシャ哲学、ギリシャ思想は健在でした。

旧約聖書に基づいたヘブライ思想は紀元前1500年からありましたから、ギリシャ文明よりも古いのです。

 

北イスラエル王国を滅ぼした(BC722年)のは、アッシリア帝国。

そのアッシリアを滅ぼしたのが、バビロン帝国。

バビロン帝国は南ユダ王国を(BC586年)滅ぼしました。

ギリシャ哲学が興る200年以上前に、チグリス・ユーフラテス川にはこれらの文明がありました。

バビロンを滅ぼしたのは、メド・ペルシャ(メディアとペルシャの連合軍)。

そしてペルシャ帝国の支配になります。

 

ペルシャ帝国を滅ぼしたのが、ギリシャのアレキサンダー大王、オリエント文明の時代。

その後、ローマ帝国が支配します。

ローマ帝国は土着の宗教やギリシャ思想も巻き込みながら大帝国になって行きました。

 

パウロの時代には、ギリシャ思想、ローマ思想、ヘブライ思想、ざっと分けるとこうした思想や哲学のすぐれた言葉や知恵があふれていたのです。

 

私は、これらを中学高校時代の教科書の知識を思い出して書いています。

30代の終わりに聖書を学ぶようになりました。

ダニエル書のネブカデネザル大王の見た夢をバビロン捕囚されたユダヤの青年ダニエルが解き明かすのですが、

王様の見た夢(頭は金・両腕は銀・腰は銅・両脚鉄・足の10本の指は鉄と粘土の大きな像の夢)が、バビロン→ ペルシャ→ ギリシャ→ ローマ→ 10の弱強国を表わしていると知った時の驚きは大きかったのです。金銀銅鉄はそれぞれの国を表わしていました。

 

小学生の時には日本の歴史しか知らなかった私が、中学生の社会の教科書で世界史を学んだ時の興奮(笑)。

高校での社会の選択科目は迷うことなく世界史を選びました。

日本史については小学6年で堪能できましたから、世界史をもっと知りたいと思ったのでした。

 

学校生活を終えてからも、世界史の教科書を大事に持っていて、日本史と世界史の対照年表を大学ノートに作っていくほど、歴史に夢中になっていたのです。

 

子供時代のその知識が、聖書を学ぶときに役に立つことになったのでした。

キリスト教は野蛮だから嫌いでした。

キリスト教国家の歴史を知ると、いくら文明文化がすぐれていても、他国との戦争を繰り返し、宗教戦争を繰り返し、ついには世界中を植民地として搾取するキリスト教国家を軽蔑していました。

 

世界史が好きだったばかりに世界史の闇を見てしまったようでした。

そして、キリスト教は愛の宗教どころか悪の枢軸だと決め込んでしまったのです。

 

しかし、不思議なことに、

「聖書を読んだこともないのに、キリスト教を悪い宗教と決めつけるのか?」

と、ある日、私の心が私に問いかけたのでした。

 

その日、SDA教会の文書伝道者がサインズの更新にいらしたのです。

サインズは5年前から親戚の者とのお付き合いで購読していました。

 

そこで、「聖書を読んでみたいと思うけれど、お宅様はキリスト教会さんだから、聖書を販売していませんか」と尋ねてみましたら

「『預言の声・聖書通信講座』を無料ですから」と勧められ、「聖書は教会のをお貸ししましょう」とうまく勧誘されて、そのご婦人と出会って5年目に聖書研究をすることになってしまったのでした。

 

「まずいなあ、私はキリスト教がきらいです、なんて親戚の人の手前、失礼で言えないじゃないの。無料だし断りにくい・・・まあ、仕方ないか・・・」

と行き掛かりで始めた通信講座でした。

 

ところが、ところが、ダニエル書の巨像の解説に、教科書通りだ!と驚愕。

創世記1章には、人間の食べ物として菜食のこと、レビ記11書には食べてはならないものの肉食のリスト。私はその3年前からマクロビオティックに取り組んでいたのです。

私のライフスタイルが聖書に書かれていることと共通している!と驚愕。

 

聖書はキリスト教の書というだけでない何かがある・・・

人に相応しい生活の指南書であるのかもしれない・・・

聖書を信じながら、なぜキリスト教国が凶暴化して堕落していったのだろうか・・・

 

聖書への関心が湧いてきましたが、キリスト教会につながることも、ましてやクリスチャンになることも、「お断り!」との気持ちには変わりはありませんでした。

 

通信講座を7カ月ほどかけて学びましたが、その間に「講演会」だの「音楽会」だの「クリスマス会」だのとお誘いがありますが、もちろんお断りしてきました。

「こういう方法で信者を増やそうという作戦ね」と思いましたから。

「その手には乗らないわ」私は20年以上の筋金入りのキリスト教嫌いでしたから。

 

そんな私が、通信講座の終盤に、聖書の一つの言葉に捕えられてしまったのでした。

その瞬間、生ける神キリストに出会い抱きしめられた・・・のです。

夜中の台所のテーブルの上には、聖書と通信講座のテキスト。

 

私はただただ泣きました。さめざめ泣きました。

今までの人生でたくさん泣いてきました。

しかし、生ける神キリスト様の御腕の中で泣いたのは初めてでした。

「あなたが苦しんでいることを私は知っているよ。もう大丈夫だ」

そんな声が心の奥の奥で湧いてきました。

最後の講座の回答を書き、「〇日木曜日1時半に教会を訪問いたします」と書き加えました。

 

11月の小春日和の木曜日の昼下がり市内地図で場所を確認して一人で訪問しました。

「キリスト様の力だろうか・・・」

不思議な力が私の背中を押していると感じていました。

 

そして毎安息日には教会の安息日礼拝に出席。

一年後には、バプテスマ。

 

私は、世の中のすぐれたことばやすぐれた知恵に拠らないで、聖書の言葉で十字架のキリスト様に出会いました。

 

そして、神様の不思議な力が私を、聖書で定められたとおりに、創造と贖いの記念日である第七日目安息日に礼拝をささげている聖書に忠実なセブンスデー・アドベンチスト教会に連れて来たのです。

 

2:2「なぜなら私は、あなた方の間で、イエス・キリスト、それも十字架につけられたキリスト以外、何も知るまいと心に決めていたからです。」

 

2:4「わたしの言葉も、わたしの宣教も、知恵に溢れた言葉よらず、”霊”と力の証明によるものでした。」

 

2:5「それは、あなたがたが人の知恵によってではなく、神の力によって信じるようになるためでした。」

 

マラナ・タ

コリント人への第一の手紙2章1-5にパウロが書いておいた通りのことが私の上に起きたのでした。

 

2章について、さらに書き進めますが、時間が来ましたので。また。

続く