ごきげんよう!さわこです。
第一話 聖書は神様からの手紙 ⑥
第一話を ①から始まって ⑥まで書いてしまいました。
15世紀に、ドイツでグーテンブルグがラテン語の聖書を初めて印刷しました。
この瞬間、多くの人々が、「神の言葉」を手にしたのです。
今では、聖書は世界中の言葉に訳されて世界中の人々によって読まれています。
そして、読む人々に多大な影響を与えてきました。
その聖書には、イスラエルの歴史が延々と書かれてあり、詩や難解な預言、手紙があります。
そして有名な福音書はイエス・キリストの伝記です。
それなのに、一体どうして世界中の人々が、聖書を飢え渇くようにして読むのでしょうか。
国によっては命がけで聖書を手にしなければならないのです。
新約聖書のヘブライ人への手紙4章12節には「神の言葉は生きており力を発揮し・・・」と書かれていますが、実際に読んでみると、まさにその通りであることがわかります。
聖書の言葉の一つ一つがまるで生きているかのように、不思議な力と魅力に満ちているのです。
さて、聖書は旧約聖書と新約聖書の二つの部分からできています。
旧約聖書はキリスト誕生以前に、主にヘブル語で書かれていて全部で39巻からなります。
古いもので今から3500年前に書かれました。
新約聖書は、キリスト誕生以降、ギリシャ語で書かれていて27巻からなっています。
今からおよそ1900年前に書かれました。
3500-1900=1600年以上もの歳月を要して書かれているのです。
1600年もの隔たりがあるにもかかわらず、初めから終わりまで首尾一貫したテーマを見いだすことができるのです。
そして約40人の著者がいて、その背景も、王様、政治家、学者、漁師、徴税人、医者など実に様々です。
これら多くの人々の手によって、途方もないほどの歳月をかけて出来上がったのが聖書なのです。このようにして書かれた本が他にあるでしょうか。
背後に人間を超えた大いなる存在を感じずにはいられないとは思いませんか。
また、聖書には、人間を変革する不思議な力があります。
各時代にわたって、あらゆる国の人々に生きる目的を与え、平安を与え、喜びを与えてきました。
新約聖書のローマ人への手紙15章4節には「かつて書かれた事柄は、すべてわたしたちを教え導くためのものです。それで、わたしたちは、聖書から忍耐と慰めを学んで希望を持ち続けることができるのです」と書かれています。
時代を超え、民族を超えて人間を変えてしまう力が確かに聖書にはあります。
この力とはいったい何なのでしょうか。
はるか昔のある一民族の物語が書かれているにもかかわらず、神様が個人的に私に語りかけておられると受けとめることができるのはなぜでしょうか。
私たち人間の理解を超えた不思議と力が、聖書にはあるのです。
新約聖書コリント人への手紙第一1章18節には
「十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です」とあります。
まさにこの通りであることを信じた人は体験しているのです。
信じない人は、愚かだ、洗脳されていると嘲笑うかもしれません。
しかし、信じた人にとっては聖書はまさに「神の力」なのです。
聖書に出会って憎しみに満ちた心が変えられたという話はよく聞きますが、
その一人の若者の話を紹介します。
太平洋戦争の後、ハワイの刑務所に1人の日本人の死刑囚が収監されていました。
恐怖に脅えると同時に、彼の心は憎しみでいっぱいでした。
彼はサイパン島において上官の命令にしたがっただけなのに、その情感はうまく帰国し、自分だけが捉えられて死刑を待つ身となってしまったのでした。
異国の刑務所における孤独と恐怖。そして上官に対するに憎しみはつのるばかりでした。
そんなある時、彼は日本語に飢え渇くあまり、日本語の聖書通信講座を始めます。
本当はキリスト教が大嫌いでした。
しかし、読み進めて行くうちに、だんだんと聖書の世界に吸い寄せられてしまうのです。
そして、彼の心の中で何かが変わり始めたのです。
死刑の身でありながら、希望が湧きあがってくるのです。
それは永遠の命に対する希望でした。
さらに、あれほど憎んでいた情感をいつの間にかゆるしているのです。
彼は刑務所内においても模範囚となっていきました。
そして、ついに大統領の特別な恩赦が出て、日本に帰ってきたのです。
そして牧師となり、日本中、世界中をまわって自分の体験を話しておられます。(『地獄の虹』毎日新聞社より)
赦せるはずのいない人を赦す力が聖書にはあります。
死の先にある永遠の世界に目を向けさせ、本当の希望を与える力が聖書にはあります。
続く