ごきげんよう!さわこです。

おはようございます。

今日は金曜日、備えの日。

日没から七日目ごとの安息日に入ります。

 

今朝の私のデボーションから・・・二つの恵み

 

一つ目の恵み「わたしも、きっと賢くなれる」

神は私たちの五感に語り掛けてくださるので、自然界のあらゆる神の御手の業の内に、神の愛と善意を見ることができます。

人間たちよ、私よ、私、周囲の混乱と悩みから目を逸らし、神の御手の業をほめたたえてごらん。

そして神の御業について研究してごらん。

私たちの知性は啓発される。私もかしこくなれる、きっと。

この賢さは、神の愛が結んでくれるもの。

サタンがエバにささやいた神のようになれるという賢さではなく、

クリスチャンという語源につながるもの。

キリストのようなご品性にあこがれる心に生きること。

 

讃美の歌があふれました。

♪御手のなかで、すべては変わる讃美に

わが行く道を導きたまえ、あなたの御手の中で。

御手のなかで、すべては変わる感謝に

讃美を歌い、感謝をささげ、あなたの御手の中で♪

 

二つ目の恵み「べきであるは、愛の言葉」

従うことは神への愛が根底にあるべきである。

人間はわがままだから「〇〇であるべきである」と聞いただけで、自動的に反抗のスイッチが入る。

その時、私はアダムの悲しみを思う。

 

あの時、何故、エバが自分の傍からいなくなったことに無頓着だったのだろう?

エバが

「おいしいわよ。食べたって死ななかったわよ。ほら、あたしを見て、今までとか変わりないでしょ。もっときれいに賢くなったとさえ思わないこと?」

と言った時、神様のお言いつけを思い出したはずだった。

 

それなのに、エバを失いたくないとの思いが衝動的に自分を襲って、一緒に死んでしまおうと、その実を食べてしまった。

あの時なぜ、エバのために、神様に執り成しの祈りをささげて赦しを請わなかったのだろう。

あの一瞬の選択のミスが、子々孫々へつながってしまった。

 

不従順という選びは、人間の知性が働くよりも速やかに衝動というスイッチが入る。

何をするかを考える前に、先ず、自分が神の子であることを忘れていないか自問しなくてはならない。いつも、救い主の傍にいて、救い主の気配の中にとどまっていなくてはならない。

 

「自問すべきである。留まるべきである。神に愛されている神の子であることを覚えているべきである」

 

私に反発の精神をおこさせる「べきである」という語が、どれほど私を守る力を持っているのか、忘れてはいけないのだ。「覚え続けるべきである」。

 

「○○べきである」とは、私たちへの神様の守りの言葉。

神様への従順への道しるべ。

 

そのとき、柔和と謙遜が、誠実と慎みが、責任感と努力が、愛の実となってだんだんと、少しづつ、私のうちに結ばれる。

 

マラナ・タ

こういう恵みを受ける日は、聖書通読が、どんどん進まない。

一つの御言葉にとどまるから。一つのコメントが輝くから。

通読の続きは、また後で。