ごきげんよう!さわこです。

 

ヨハネの手紙を毎日、1節ずつ、ドロップを一粒、ゆっくり味わうように食べよう、

と提案して、その誘いに乗って来た信仰の友たちとドロップスの会を作りました。

 

神様にもキリスト様にも、聖書にも関心を寄せない人たち、求めようともしない人たちこそが、実は神様を最も必要としている存在ではないだろうか、と次第に思うようになってきました。

 

ヨハネの手紙を、1節ずつ読もうよ、

という誘いもクリスチャン限定になってしまうのかもしれません。

馬を水辺に連れて行っても、飲もうともしない馬に無理やり水を飲ますことはできないと言います。

同じなのです。聖書に関心を全く持たない人に、聖書を少しずつ読もうよ、と言っても無理な話。

 

ヨハネの手紙の読者は、イエスをキリスト(メシア)として受け入れている人たち、クリスチャンたちです。21世紀の今の時代も、ヨハネの手紙を読む人はきっとクリスチャン。

 

クリスチャンでなくても、キリスト教を知りたいと思っている人たち。

聖書に関心を寄せている人たち。

そして、いつかはバプテスマに預かってキリスト信者になりたい、

なるかもしれない・・・そういった思いが

心の中で大きくなったり小さくなったりしている人たち。

 

こんな分厚い聖書という本、解る所ばかりではない、反発してしまうところもある。

愛の書だと思いながら読んでいたら、イスラエルの歴史には戦争、戦争。

神への反逆、反逆。聖書をどういう心構えで読めばいいのか、混乱してしまう。

しかし、自省するためや、人間関係や人生で傷ついたときの慰めや励ましにもなる。

 

「罪が赦される」と書かれていても、「罪」を自覚し得ない者にはピンとこないだろう。

 

「聖霊の神様、教えてください。お導きください。何をどう受けとめたらよいのかさえも分かりせん」とわが身の無知を神様に差し出して教えを請うしかないのだと思います。

 

聖書には全く関心が無い。神様にも関心が無い。罪責感を持ったことさえない。

自分の衝動のままに生きている人たち。

 

あるいは順風満帆で「神様、仏さま、あなたのお守りのおかげで大難は中難に中難は小難に、小難は無難になっています。ありがとうございます」と仏壇や神棚の前で手を合わす人々もいるのだろう。

 

世をはかなんで、今夜こそ死のうと思っている人もいるのかもしれない。

 

神を知らず、神を知ろうともしない、自分の罪ある言動に気づきもしない人たち。

 

そういう人たちにこそ「わたしはここにいるよ。わたし(聖書)を読んでくれないか」とイエス様は願っていらっしゃるのではないだろうか。

そして、先にイエスを信じた私たちは、そういう人のために祈るべき資格があるのではないのだろうか。

 

自分の罪を自覚するのも、悔い改めができるのも、

それは神様の力による。神様の恵みによる。

 

取税人、ザアカイさんは、どのようにして悔い改めの心を持つに至ったのだろう。

どのようにして、イエス様に会いたいと思うようになったのだろう。

サタンに心をとりこにされていた人が、イエス様なら救い出してもらえると期待するようになったのだろうか。

12年間、長血を患っていた女がイエス様の御衣に触れさえすれば必ず癒してもらえるとの確信を持ったのはどうしてだろう。

 

律法学者、祭司、ファリサイ派の人たち、当時の聖書の権威とも言える人たちが、聖書を読みながら、聖書(旧約聖書)を知りながら、聖書で預言されていたメシアがナザレのイエスであるという沢山の証拠が聖書にあるにも関わらず、信じないばかりか、妬みの心を起こしてイエスを殺そうと何度も思ったこと、そしてついに本当に殺してしまったこと。

 

聖書に詳しいからと言って、イエスをメシアと信じることができるわけではないことは、彼らの存在から学ぶことができる。

 

人は、頑なな心をどうしたら柔らかくなるのだろう。

 

ある友が、職場に意地悪な人がいて苦労していると嘆いていた。

私も職場でのいじめにあって、ストレスから十二指腸潰瘍になったことがある。

 

いじめられている側が、神様に助けを求めることはあっても、いじめる側が自分のこうした心を何とか変えてくださいと神様に助けを求めることもあるのだろうか。

 

ヨハネの手紙を1節、2節と少しずつ味わいながら読んで、その気づきを送ってくれる友のメールを読みながら、聖書のみ言葉は、人を霊的に育ててくれる力のあることを感じています。

 

求める者には、神様はお与えくださるのです。

「求めなさい、そうすれば与えられる」マタイ7:7

 

イザヤ65:1が思われました。

「わたしに尋ねようとしない者にも

わたしは、尋ね出される者となり

わたしを求めようとしない者にも

見出される者となった。

わたしの名を呼ばない民にも

わたしはここにいる、ここにいると言った。」

 

マラナ・タ

結論は出ません。

でも、神様は、人類すべてに見出されるお方なのです。

その神様の憐れみにおすがりして、

頑なな人、頑固な人、神様に逆らう人を、神様の御心にかなう祝福で満たしてください。

神様を求めないではいられなくなるような奇蹟をお与えください。

小さき者の、この力のない祈りを神様お受け入れください。