ごきげんよう!さわこです。
聖書通読旧約は、3月28,29日はマラキ書でした。
今回は4年ぶりに新改訳・バイブルナビを用いています。
バイブルナビの注釈から引用します。
・マラキ書は、旧約聖書と新約聖書を繋ぐ架け橋である。
・マラキ書を読む時には、神の民への神の言葉を受け取る者であると自分自身をみなそう。
・あなたの献身の深さ、礼拝への誠意、人生の方向について吟味し、神から愛の赦しを通して、神とあなたの関係を神に回復して頂こう。
・最も大きな悲劇は神との関が壊れることである。
マラキ4:2(新共同訳では3:20)
「しかし、わたしの名を恐れるあなたがたには、
義の太陽が上り、
その翼には、いやしがある。」
この聖句についての脚注に希望と平安を頂きました。
「今の生活がどのような状態であったとしても、神が将来を支配しておられるから、全ては大丈夫である。神を愛し、神に仕えて来た私たちは、喜びに満ちた祝いを楽しみにすることができる。このような将来への希望が人生を神にゆだねる時、私たちのものとなるのだ。」
主の御名を恐れること、
そのことについて、先週の安息日に子どもの分級のクラスで学んだのでした。
「31日には暗誦聖句大会があるから、どの聖句を暗誦したい?」
子どものテキストには13の暗誦聖句がありますが、その中から選ぶように言いました。
もうすでに覚えている聖句に印をつけながら、
まだ覚えていない中から、5年生の桃ちゃんは、8課の詩編34:8にしたいと言いました。
「主の使いはその周りに陣を敷き、主を畏れる人を守り助けてくださった」
「私もこの御言葉好きよ。詩編のどこにあるかをきちんと覚えていないものだから、いつも探し回るのよ。だから、私も今度こそは、何篇何節かもきちんと覚えることにするわ」
そして、一緒に繰り返して覚えました。
「神を畏れる人って先ず思い出す人はだれ?」と質問しました。
「モーセがそうだ。」
「それから、モーセよりももっと古い時代の人のことも思い出そうよ」
そこで、創世記3章から始まって、ノアの箱舟の話、ノアの子孫から生まれて神様を信じて従った人、誰がいたかな?
桃ちゃんの頭の中では、記憶のフル回転。
ノア、アブラハム、イサク、ヤコブ・・・ヨセフ・・・と次々に言ってくれました。
「じゃあね、神を畏れるってどういうことかな?」
「神様を信じること」と桃ちゃん。
「そうね。サタンになったルシファーも神を信じていたね。
モーセたちの神を信じることと、ルシファーの信じることは同じ?」
「ううん、違うよ。モーセやノアやアブラハムは、心から神様を信じていたけど、
ルシファーは・・・神様を知っていただけだった・・・」
「そうね。モーセたちは神様に従った。ルシファーは神様に逆らった。そこが違うね。
神様を信じて、そして神様に従うことが、大事なのね。
今、桃ちゃんは、神を畏れる人たちの名前を、聖書の中からあげてくれたけれど、今の時代にも神を畏れる人はいるかしら。教会には桃ちゃんのように神様を信じる人がたくさんいる。」
「安息日に教会に集まる人たち、みんな神様を畏れる人だ!」
そこに、遅れて木の実ちゃんがやってきました。
「さわこ先生、木の実ちゃんに、今まで勉強したこと話してあげて」と桃ちゃん。
「神さまを畏れることについてお勉強していたのよ。木の実ちゃんは神様を畏れるってどういうことだと思う?」
「神様を信じ愛すること」4年生の木の実ちゃん。
「完璧な答えだ!すばらしい!」と、思わず、桃ちゃんと私は拍手をしました。
「今日は詩編34:8を勉強していたの。神様の使いである天使たちは、神様を愛し信じ従う人たちの周りを取り囲んで、悪い者や悪いことから守ってくださるというお約束が書かれているのよ」
木の実ちゃんも交えて、また、暗誦を繰り返しました。
4年生と5年生の二人の少女が「主を畏れること」について
しっかりと理解できていることに驚きました。
子どもの聖書のクラスを持たせていただくことは、
私の信仰を養って頂けます。
神様への感謝と讃美が湧いてきます。
マラナ・タ
箴言を次々に思い出します。
主を畏れることは知恵の初め 1:7
主を畏れることは命の源 14:27
主を畏れることは諭しと知恵 15:33