ごきげんよう!さわこです。
今日の私のドロップス三粒は、ヨハネ第一の手紙 1章 8,9,10節。
「もし、罪はないと言うなら、私たちは自分を欺いており、真理は私たちの内にありません。
もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちを清めてくださいます。」
私たちはこの世に生きている限り、
いつでも罪を犯しうるのですから警戒を緩めてはならないのです。
罪とは、神から目をそらすこと。
神以外のものに目を向けてしまうこと。
神の言葉以外の言葉や思想に心を奪われること。
自分の判断力を過信すること。
私たちは回心した時(神のもとに立ち帰った時)に、過去、現在、未来におけるすべての罪は赦されました。
それでも、クリスチャンになってからでも、神から目を離して生きることが起きます。
「知らずに犯した過ちに気づかせてください」
「知らずに犯した過ちを赦してください」
と一日の終わりには祈ることを怠ってはなりません。
過ちは罪となって神との間の障壁となるのです。
過ちを神の御前に告白することなく放置しておくと、
私たちの心はかたくなに、頑固になっていくのです。
神様に向かっての罪の告白をおざなりにしていくなら、
神との距離が離れて行くことに対しても鈍感になってしまうのです。
ここで、おざなり?なおざり?どっちを使えばいいの?と気になりました。
調べてみましたら、
現代語として考えた場合、
そして異なるのは、「
とありました。
詩編50編23節を思い起こさせていただきました。
「告白をいけにえとしてささげる人は、わたしを栄光に輝かすであろう。道を正す人に、私は神の救いを示そう」(新共同訳)
「感謝のいけにえをささげる者はわたしを崇める。自分の行いを慎む者にはわたしは神の救いを示す」(口語訳)
告白=感謝
神様に自分の罪を告白することとは、神様に感謝することにつながっていく。
そう、告白することで神様からの赦しを頂くのですから、感謝にならざるを得ない!
ハレルヤ!
自分の欠点や過ちを認めることは快適ではなく、出来る事なら見ないで過ごしたいものなのです。そういう思いが「罪」となり、その思いから逃れることは難しい。その難しさに立ち向かう勇気は神様からしか与えられないのです。
祈ります。
「自分の弱さや不誠実さや不正直さを受け入れる謙遜さをお与えください。そのための強さを私の内に育ててください。自分のずるがしこさと戦う勇気を与えてください」
この祈りは、私が神様に見限られてしまうのではなく、神様が私をご自身のみそば近くに引き寄せてくださるものです。
自分の過ちを神様に告白することで、私たちは神様との交わりを楽しめるようになるのです。
マラナ・タ
キリストのもとに行くなら、キリストは私たちの罪を、過去に犯したものも、これから犯す可能性のある罪も、すべて赦してくださる。
その赦しの大きさにあぐらをかいてしまうような不実な者になることのないように、高価な恵みを安価な安っぽいものへと貶めてしまうような恐ろしい罪を犯すことのないようにお守りください、と祈りました。