ごきげんよう!さわこです。

 

ドロップスの会の分かち合い通信の発信を始めましたが、私の個人的なデボーションも記録に残すことにしました。

 

ヨハネの手紙 1章1節から4節  小見出し「命の言」

私はこの1節から4節を、一日1節、四日間かけて、ドロップを口の中で舐めるように味わいました。五日目には5節を、そして六日目の今日は6節を味わっています。

ひとます、ドロップ4粒の味をお伝えしたく、四日間の味わいを記録に残します。

 

1節「初めからあったもの、わたしたちが聞いたもの、目で見たもの、よく見て、手で触れたものを伝えます。すなわち、命の言について。――」(言、ことばと振り仮名がある)

 

初めからあったもの・・・

天地が創造される前から、永遠の昔から、あったからあった。ありてあるもの。

 

わたしたちが・・・

神であるイエス様が人として地上人生を送られた公生涯の3年間、共に過ごしたヨハネたちが、

 

聞いたもの、目で見たもの、よく見て、手で触れたものを伝えます。・・・

ヨハネたちは、100%神であるイエスが、100%と人性を取られて、この地上に生きられたので、イエスの声をイエスの言葉を聞いたのです。この目でみたのです。

じっくりと、イエス様のそば近くでよくよく見たのです。

しかも、イエス様の手にも体にも御顔にも、自分の手で触れたのです。

何といっても神ご自身が肉体を持って、私たちの傍にいてくださったのですから。

このことを自分たちだけの思い出としてしまうことはできません。

イエス様が「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい」(マルコ16:15)と仰いましたから。

 

すなわち、命の言について。――・・・

イエス様は、すなわち、言い換えるなら「命の言」なのです。

このことについてはヨハネによる福音書の1章からと、創世記の1章からも証明できます。

ヨハネ1章節1には「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。」

イエス様は永遠の昔から永遠に「言」です。

2節「この言は、初めに神と共にあった」

3節「万物はことばによって成った。成ったもので、言によらずにったものは何一つなかった。」

ここは創世記1章においても確認できます。「神は言われた。そのようになった」神の言葉によって万物は造られました。

ヨハネによる福音書1:4「言の内に命があった。命は人間を照らす光であった」

 

2節「この命は現れました。御父と共にあったが、わたしたちに現れたこの永遠の命を、私たちは見て、あなたがたに証しし、伝えるのです――。」

この命・・・

イエス様のことです。

 

御父と共にあったが・・・

イエス様は父なる神と共におられて、一つでありました。

 

私たちに現れたこの永遠の命を・・・

イエスは、人として、この地上に現れたのです。私たち人間のもとに現れたのです。

イエス様は永遠の命です。

 

あなたがたに証し、伝えるのです。・・・

あなたがたとは、ヨハネの手紙の読者のこと、聖書を読む人たちのこと。

つまり、今、こうして読んでいる「私」に向かって2000年の時を経て、イエスの弟子である12使徒のひとりであるヨハネが、「私」に話してくれているのです。

 

証しし・・・

神であるイエス様のことを語ることを「証しする」と言います。

神であるイエス様との個人的な出来事をお話することを「証し」と言います。

 

ヨハネがこうして手紙という方法で、伝えることの目的は

「3節・・・あなたがたもわたしたちとの交わりを持つようになるためです。わたしたちの交わりは、御父と御子イエス・キリストとの交わりです。」・・・

 

100%人性をとられたイエス様が、十字架で死なれ復活なさり天の御国に戻られて、100%神としてのお姿に戻られた今、イエス様の昇天後に生まれて生きて来た者たちは、自分の目でイエスを見ることも触れることも出来ません。

直接に御声を聞くことも出来ません。

出来ることは、イエス様が「助け主」として送ってくださった聖霊の神様に助けて頂いて、イエス様ご自身である聖書の御言葉を読むこと聞くことによって、イエス様を知り触れ見ることができるのです。

聖書を読む、聞く、祈る。イエスを我が神、我が救い主と信じる信仰を同じく持つ者たちとの交わりによって喜びが満ち溢れるようになるのです。

 

マラナ・タ

聖書通読では、旧約2章、新約1章のペースで1年かけて通読を済ませますから、一つの御言葉にじっくり向かうことができない時の方が多いかもしれません。通読と並行して、ヨハネの手紙を一日1節だけをデボーションする、この方法は、私の渇きを癒してくれるためでもあるのだなあ、と感動しています。