ごきげんよう!さわこです。

昨日の通読箇所、出エジプト記16章から。

バイブルナビの注釈に目が留まりました。

・・・困難な状態に陥った時、ストレスを感じ不平を言うことはごく普通のことである。イスラエル人も本当にエジプトに帰りたいと思ったわけではないだろう。ただもう少しだけ生活が楽になればよいのにと思っただけだった。

プレッシャーを受けている間は、自分のストレスの原因に焦点を合わせることができないのだ。

ここの場合のプレッシャーの原因は、神様への信頼不足にある。

そのようなとき、プレッシャーから逃げるための早道を人は求めるのである・・・

 

イスラエルの民は、エジプトに帰りたいと言った。エジプトから脱出した時リーダーに忠実なものばかりではなかった。またイスラエル人ではない人々もいたのだ。そういう人たちが先頭に立って不満を言ったと考えられるけれど、その不満がイスラエルの人々の中に伝染していったのも確かなことである。

 

私たちも同様に、プレッシャーがかかったとき、そこから逃れようと「教会にはもう来たくない」とか「この係はやめたい」とか「この集会には参加をしない」とか言い始める。

私も何度もそのような思いに陥った。

「神様は、私がこの役割から降りることを望んでいらっしゃるかもしれません。その証拠に、相応しくないとしきりに私を批判する人がいるからです。その批判を神様も受け入れていらっしゃるのではないでしょうか。批判する人は私よりもずっと賢いし、仕事ができるし、理路整然と弁舌もたちます。人からの信頼も厚いです。どう見ても私は不適格者です。批判ではなく指導してくれているのに、批判と受け止める私は、それだけで相応しくない人物であるという証拠です。」

と言って逃げることを正当化したことがあります。

 

バイブルナビは、こう書いています。「あなたの身にプレッシャーがかかるとき、逃げ道を作ろうとする誘惑に抵抗しよう。あなたのストレスの原因をどう処理するか助けてくださる神の力と知恵に焦点を合わせよう。」

 

あの時、私は逃げ道を作りそれを正当化しようという誘惑に遭っていたのだと気づきました。

「神様、あなたの御目に私は相応しくありません。あなたの御目に相応しい人に替えてください。」と言っていた自分に気づいたのです。

 

神さまは私がごたくを並べるのを聞いてくださっていました。

あれこれと言い募る私に、いつも通りの聖書通読とデボーションの時をくださって、そこから神様の声を聴くように条件を整えてくださっていました。

そして私は聖書の通読箇所から祈りを頂いたのです。

その祈りによって立ち上がらせていただきましたが、私のプレッシャーは3か月続きました。

心は苦悩に満ち、頭の回線は鈍くなり、頂いた祈りばかり繰り返してベッドに横たわっていました。

 

その祈りは二つあります。

「神よ、私の神よ。あらゆる高ぶりを私に示し知らしめ、私の心から取り去って下さい。深い謙遜の真理を私のうちに目覚めさせてください。そして、主の光にあずかり聖霊に満たされることを可能にしてください。」

この祈りは10年以上も前から愛読し数年ごとに読み返しているアンドリュー・マーレーの『謙遜』という書物の終わり部分を読み返すように聖霊は信仰の親友を通して語られたのでした。

2ページにわたってマーレーの書いていることを聖霊様は集約して、私に理解させてくださりこの短い祈りとしてお与えくださったのでした。

深い謙遜の真理にあずかるとはどういうことか、それを祈り求めよ」と私に教えてくださったのでした。

 

もう一つは、イザヤ書51章を通読している時に与えてくださいました。

この箇所も長いのですが、このように7節と12節から祈れるように聖霊様はコンパクトにまとめさせてくださったのです。

「わたしの教えを大切に胸にしまっている人よ。あなたを慰め、喜びを与えるのはわたしだ。だから、草のようにしおれて枯れるただの人間を恐れてはいけない」

(リブビングバイブル・イザヤ51章7節12節より)

 

人の言動に過敏に反応し過ぎる私の小ささ狭さを優しく指摘し、私のことを『わたしの教えを大切に胸にしまっている人よ』と、先ず呼びかけてくださったことの有難さに涙があふれました。

神様に焦点を合わせなくなっている私に向かって

『わたしの教えを大切に胸にしまっている人よ』とは、何ともったいないほどの、神様の側からの私への愛と信頼に満ちた呼びかけではないでしょうか。

 

出エジプトに15章を今回はバイブルナビで読んでいますが、その注釈によって、出エジプトの時のイスラエルの民と私自身が重なったのです。

 

今、私と似通った状態で呻吟している信仰の同胞がいます。

その友に伝えたいのです。

「プレッシャーの強い時は、偽物の謙遜で逃げることを正当化させようとする敵がいる。逃げたくなったとき、『イエスを見上げよ』『神から目を離すな』『焦点を人や状況にではなく神にのみ合わせよ』と助け主であるキリストの御霊である聖霊の呼びかけであることを覚ようではないか」と。

 

マラナ・タ

主イエスよ、来たりませ。

私たちの心に。

そうして主イエスの再臨に備えさせ、清めてください。