ごきげんよう!さわこです。

11月15日に「割礼」について書きました。

ある方から

「割礼を通してのあなたの熱心な追求姿勢はわかりましたが、内容は今ひとつ掴みきれなかった。」

と正直な感想をいただきました。

「では、シンプルに書き直してみますね。」

と、お返事して、自分への宿題にしました。

 

 

割礼について出てくる聖句を取り出してみます。 

①ルカ2章21節 「八日たって割礼の日を迎えたとき、幼子はイエスと名付けられた。」

②ルカ1章59節 洗礼者ヨハネが誕生から八日目に割礼ほどこし

③レビ記12章3節 「八日目にはその子の包皮に割礼を施す」

④フィリピ3章2節 「切り傷に過ぎない割礼」

⑤フィリピ3章3節 「真の割礼」

⑤フィリピ3章5節 パウロが生まれて八日目に割礼を受けた

⑥申命記10章16節 「心の包皮を切り捨てよ。二度とかたくなになってはならない」 

⑦創世記17章10節―14節

あなたたち、およびあなたの後に続く子孫と、わたしの間で守るべき契約はこれである。すなわち、あなたたちの男子はすべて割礼を受ける。包皮の部分を切り取りなさい。これが、わたしとあなたたちとの間の契約のしるしとなる。いつの時代でも、あなたたちの男子はすべて直系の子孫も、奴隷も、あなたの子孫でないものも皆、生まれてから八日目に割礼を受けなければならない。・・・それによって、わたしの契約はあなたの体に記されて永遠の契約となる。包皮の部分を切り取らない無割礼の男がいたなら、その人は民の間から断たれるわたしの契約を破ったからである

ここの聖句を、整理して箇条書きにしました。

・割礼とは、アブラハムの子孫と神との守るべき契約

・男子の生殖器の先の包皮の部分を切り取ること。

・神とアブラハムの子孫との契約のしるし

・生まれてから八日目に男子はみんな受ける

・男の人の体にしるされた 神との永遠の契約

・無割礼の者は神との契約を破ったと見なされて民の間から断たれる

     (割礼とは何と厳粛な、きびしい掟でしょうか!)

 

 

日本には割礼という習慣はないが、イスラエルやアラブ、アフリカなどにはある。

イスラエルの場合は、信仰と健康問題とが関係している。

割礼とは、男性の生殖器の先の方の包皮で覆われた皮を切り取る処置。

なぜ、健康問題かというと、その部分は汚れがたまりやすい。男が感染症になると妻にも病気が移る。

すると生まれる子供にも問題が生じることになる。だから清潔にしなくてはならない。つまり、子孫繁栄につながる。

 

⑧     申命記10章16節 「心の包皮を切り捨てよ。二度とかたくなになってはならない」

心の包皮をそのままにしておくと、神に対してかたくなになる、と書いてあります。

肉体的包皮という「地の事柄」が、心の包皮という精神的な表現になっており、神様に関する「天の事柄」との関係に結びついている。

 

肉体的な問題は精神的な問題に直結するということでしょうか。

「健全な体に健全な精神が宿る」とも言われます。

「心の病は骨をも腐らせる」という言葉が箴言にも出てきます。

 要するに、肉体と心は切り離せないという面があるのです。

 

神様は人間を肉体と精神を含めてお造りくださいましたから、肉体と精神は別物ではないのです。

ですから、古代イスラエル人やユダヤ人にとっては、肉体の割礼は、神に忠実に従って生きる心の象徴であるわけです。

 

⑨     エレミヤ4:4「ユダの人、エルサレムに住む人々よ 割礼を受けて主のものとなり あなたたちの心の包皮を取り去れ」 

⑩ ローマ2:28,29「外見上のユダヤ人がユダヤ人ではなく、また、肉に施された外見上の割礼割礼ではありません。内面がユダヤ人である者こそユダヤ人であり、文字ではなく、霊によって心に施された割礼こそ割礼なのです。その誉れは人からではなく、神から来るのです」

 

⑪ コロサイ2:11、12「あなたがたはキリストにおいて、手によらない割礼、つまり肉の体を脱ぎ捨てるキリストの割礼を受け、バプテスマによって、キリストと共に葬られ、また、キリストを死者の中から復活させた神の力を信じて、キリストと共に復活させられたのです。」

 

⑫     使徒言行録15章に書かれているはエルサレムの使徒会議の様子

ファリサイ派から信者になった人たちが「異邦人にも割礼を受けさせてモーセの律法を守るように命じるべきだ」と言っていましたが、この問題について使徒と長老たちは議論を重ねて、使徒会議の結論は、聖霊を与えられてキリストを信じることを受け入れられた異邦人には割礼を受けさせるという重荷を負わせないということに至りました。

  

つまり、イエス様の贖罪から後、使徒たちはアブラハムの時代から続いて来た「割礼」の意味を追求し、異邦人たちがナザレのイエスをメシア(キリスト)と受け入れるようになってから、割礼をいかに捉えるかを、聖霊の導きのもとに議論を重ねていったということが書かれています。

 

現代に生きるクリスチャンたちの課題は、「割礼」を今の自分たちにどのように適用するか、です。

 

ローマ2;28,29はこのように言い換えられるかもしれません。

「外見上のクリスチャンがクリスチャンではなく、また、肉に施された外見上の割礼(それは、バプテスマにより教会員名簿に名前が記されることが、割礼と置き換えられるかもれません)が、割礼ではありません。内面がクリスチャンである者こそクリスチャンであり、文字ではなく、霊によって心に施されたバプテスマこそ、バプテスマなのです。その誉れは人とからではなく、神から来るのです」

 

神様の真理を、世界の果てまで宣べ伝えよ、とは、イエス様の宣教命令です。

肉なる者の子孫が、人類の創造主である神様の御心を知り信じて神の子となる。

神の子へと、新生する人々がどんどん増えて行く、という意味での子孫繁栄につながるのです。

割礼とは、霊的子孫繁栄であるという結論に導かれたのでした。

 

霊的子孫繁栄とは、ヨハネ3:16の聖句とつながるように思います。

「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。

独り子を信じる者が、一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」

 

マラナ・タ

神様の真理を、真実を、子々孫々と語り伝え、世界中に語り伝え、

神の民が残りの民として、終わりの時に備え、

神の使命を果たして聖書の真理を知り、信じる人が、増えていきますようにと祈ります。