ごきげんよう!さわこです

10月31日の夜、月の明るさに圧倒されました。

夫に「明日は十三夜だから、今夜の月は明日を予告するかのように明るいのね」

と話しかけたら「台風が去ったからだろう」と。

「明日の十三夜の月を楽しみにしましょうよ」

思わず「清風名月を払う、名月清風を払う」と禅語を思い出しながら、聞いているかいないか分からない夫に、独り言のように話しかけました。

11月1日。旧暦での9月13日。期待にたがわず素晴らしい名月でした。


十五夜、十三夜の時にお稽古が重なった時、お床のお軸は「清風払名月、名月払清風」

「あらゆる執着や妄想を除き去った後の清々しい心境を表わすと言う意味ですよ」

と茶の湯の師匠に教わったことを思い出しました。

 

また「昔は、お月見は十五夜と十三夜をセットで行ったものですよ。というのは十五夜だけお月見をするのは『片見月』と言って縁起が悪いとされたからなのですよ。現代ではこうした言い伝えなどなくなってしまいましたねえ・・・。十五夜は芋満月、十三夜は栗満月といって、お芋や栗をいただいたものですよ」と言って、この時期のお稽古のお菓子は、お芋や栗のお菓子がお稽古に用意されていたのでした。

 

日本の古来の風習や禅語をあらたに知る機会を与えてくださる師匠でした。

お稽古に8年間も通えたことが不思議でさえあります。

 

「お茶のお稽古やめることにしたわ」

「そうか、始めたことには必ず終わる時があるからねえ」と夫が答えた時に

何事にも時があり、天の下の出来事にはすべて定められた時がある。・・・始めるに時があり、辞めるに時がある。・・・神のなさることはすべて時にかなって美しい」(伝道の書・コヘレト3章)を思いました。

 

茶の湯は日本の文化の集大成のようなもの。中学生くらいの時から日本の子どもたちにたしなんでほしいと思います。学校の授業に組み込まれたら、どんなに素晴らしいことかと思っています。自分の祖国に誇りを持つこと、日本の伝統文化を知ること、少しでも身に着けること。日本の国力、日本の底力を確かなものにするのではないでしょうか。

 

私は小学生の時にお茶とお花のお稽古を母や従姉妹の傍でおまけの子として教わっていました。そういう環境のある時代だったのです。何といっても小学中学年の頃でしたから遊びの延長に過ぎなかったのは残念です。親もついでの子どもの時間つぶしくらいにしか思っていませんでしたから、親も子も熱心さが不足していました。もったいないことです。

 

成人して、結婚までにちょっと学びましたがその時にも本気になれず。さらに歳月を経て、自分から茶の湯を学ぼうと思ったものの8年間しか続けられませんでした。この時には中途半端であってもあらゆる知識が入っていましたから、師匠の教えにピンと来ることも多く一方的に聞くだけでなく対話をしつつのお稽古となってそれは楽しく充実したものでした。また、聖書の知識や基督者であることも茶の湯のお稽古に役立ちました。

 

私の使用している聖書通読表は、ユダヤの祭りと共に、二十四節気、新月、満月なども記入されていますので、毎朝の通読の時に、「ああ、今日は○○だ」と気づくのです。

だから10月31日の夜、美しい月を見た時「明日は十三夜だから」とすぐにわかったのでした。

この通読表を使っていなかったら気づかなかったかもしれません。

 

マラナ・タ

日本人基督者として生かされていることをとても喜んでいるわたしです。