ごきげんよう!さわこです

一人の青年が中学生だった時、夏休みに彼の叔母さんがいる私たちの教会に来ました。

私は彼にあなたの指針としている聖書の言葉は何かと尋ねました。

すると彼は即座に答えてくれました。

 

「あなたがたが、これらの…最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです。

マタイ25の40です。」

 

「病人を見舞ったり、空腹な人に食べさせたりした人を、神様が御国に迎え入れるというお話」です。そういう親切な行為はイエス様に奉仕していると同じですよ、という意味で教えられてきたと思います。

また、マザーテレサはこの御言葉に忠実に従ってインドで死にゆく人の家を建て、貧しい人、道端でウジまみれになって今や死なんとしている人を連れて帰ってきれいにやさしく看取っていきました。マザーは出会う貧しい人一人一人の内にイエス様がいらっしゃるのをごらんになっていたと書いてあるのを読んだ記憶があります。

また吉川英治の「われ以外みな師なり」という言葉も有名です。どんな人からも学ぶこと、教えていただけることがあるという意味だと思います。

自分を小さくした謙遜な言葉ではないでしょうか。

 

私たち人間は、神様が、土の塵を手ずからこねて造ってくださり、神様のいのちの息をふきこんでくださって生きる者となったアダムの子孫です。アダムは神様に背きました。

アダムの子孫たちは、アベルのように神様に従うことを喜びとする者と、カインのように神様に従わない生き方を選ぶ者と、二種類の人間に分かれてしまいました。

私たちは、神に従う側に立つか、神に背く側に立つか、選択の自由があります。

神の側に喜んで従う側に立ちたいと願っています。

 

そのためにはご聖霊の導きを拒んではなりません。

ご聖霊の小さき御声に敏感でありたいと願います。

そのための日々のレッスンを怠らないようしなくては!

 

ある方は、今、初めて会う人について「イエスさまかしら?」と思うそうです。

トルストイの靴屋のマルチンのようですね。マザーテレサのようでもあります。

そのように人を見る心って大切ですね。どんな人も尊重するという思いですから。

そういう思いにはご聖霊が働かれるのではないでしょうか。

 

  主なるイエスさまは、私たちの日常ささやかな仕事をつまらないものではなく、神様の栄光を現す機会へと大きく変化させてくださいます。

人に仕えることは、イエスさまにお仕えすることにつながります。

 

ばかにされたり、さげすまれたり、意地悪を言われたり、無茶苦茶なクレームをつけられたり、行きずりの人に怒鳴りつけられたり・・・という経験はだれにでもあるのではないでしょうか。

その時には、嫌な気持ちになるものです。

そのような時にもその人の中にイエス様の姿を見ることなどできるでしょうか。

「私にふさわしい言葉をかけてくださってありがとうございます、仰せの通りです。言いたくないことを敢えて言ってくださるあなたを私は愛します。」なんて言えますか?

たいていの人は言えないと思います。

でも愛せない人を、無理に愛そうとしなくてもいいのではないでしょうか。

愛することは、神様の領域です。

いつも十字架のイエス様を見上げるなら、神様に愛されていることを自覚でき、神様の愛によって、恵みによって、人を愛するように導かれるのではないでしょうか。

 

「私たち誰もが神様に愛されている、十字架にかかって贖ってくださるほどに愛されている。

そういう神様をいつも見上げて生きることを選びとります」

と朝に夕に宣言するものでありたいです。

 

そもそも私たちは愛の少ない者です。信仰も辛子種一粒です。

イエス様は今も天の至聖所で執り成しの祈りをしてくださっている。

イエス様の父なる神様におささげする祈りが唯一の希望です。

 

「人に対して愛の少ない私を、愛の足りない私を、主の御名で人を愛せるように助けてください。」と祈ります。

 

 

マラナ・タ

「助けてください」と確かで頼りがいのあるお方に言うことが出来ることは、なんと幸いなことでしょうか。