ごきげんよう!さわこです
安息日について マルコによる福音書 2章23-28節
「・・・安息日は人間のために設けられた。人間が安息日のために造られたのではない。人の子は、安息日にも主です。」
神は、私たちのために安息日を造られた。
私たちは、休息し、神に集中する時、肉体的にも霊的にも回復します。
パリサイ人たちにとっては、安息日の規則が安息日の休息よりも重要になってしまっていた。
ダビデもイエスも、神の律法の意義は、神や人に対する愛を促進することであると理解していました。 (2:25-28バイブルナビ注釈より)
安息日の規則について
安息日にはユダヤ教の方は、電気のスイッチも入れないと言います。
安息日までに料理も作ってしまうので、冷めたまま頂くようです。
温かくして食べたいものは、安息日に入る前に調理器のスイッチを入れたままにしておくと言います。
スイッチを切ることも労働とみなされるので、弱火の調理器のおかげで料理は暖まり続けると言うのですが、この話は本当?
またイスラエルでは、異邦人が「私はユダヤ人でない」というプラカードを持って歩いていて、電気をつけたり消したり、扉の開け閉めなど、ユダヤ人に代わってするというアルバイトもあるとか、読んだことがありますが、本当?
会堂の時計の電池が切れていて、交換しようとしたら、すかさず飛んできて
「安息日ですから、してはいけません。電池の交換は日没になってからいたしましょう」
と言った人がいたとか、いないとか・・・本当?
安息日遵守を拡大解釈してしまうのか、安息日遵守に忠実なのか?
神の律法の意義は、神や人に対する愛の促進について
神の律法の意義は愛であるからと、時と場合を考えることもなく、工夫すれば解決できることでもあるのに、年長者や識者に相談することもなく、
即効に独断専行してしまう“愛と決めこんだ行動や発言”がありはしないでしょうか。
そういう自分を新しい皮袋の柔軟な信仰者であると自負してはいないでしょうか。
反対意見や慎重派の意見に対して、愛が無いのではないか?
神様への信頼が足りないのではないか?
慎重論とは、つまりは神様にゆだねていないのではないか?
そういう信仰論に、愛と名づけた行為に振り回されてしまうことも・・・
マラナ・タ
小事に忠実な者は、大事にも忠実?