ごきげんよう!さわこです
アドベンチストライフ10号の堀内先生の「十字架を瞑想する祝福」を読んでから、久しく中断してしまっていた目覚めた時の「瞑想の祈り」の時を再開させていただくようになった。
蒲団の上で、タイマーを15分にセットして、ゆっくり丹田呼吸を繰り返してから、神様がその日、私のくちびるに与えてくださった讃美歌を小さい声でささげる。
今朝は「十字架の血潮もて、我さえ贖い、神の子としたもう 恵みの主をほめん ああ、主は十字架にかかりて、我を救いたもう 恵みの主をほめん」
ほんとうに、堀内先生の書いておられるとおり、15分の過ぎるのが早いこと・・・
さらに、10分にタイマーをセット。
家族のこと、教会の方々のこと、祈らせていただく。その10分もあっという間に過ぎてしまう。
「神様、パジャマのままで、失礼しました。」
と、お断りをしてから、身づくろいを整えて、聖書通読とデボーション、今日のガイド、今日の光、フルコースの恵みの時間。
主婦業が始まり、仕事のある日には仕事場へ。
仕事のない日には、家事をしつつ、パソコンの前に座って、デボーションノートをワードに清書。
今朝は、デボノートの清書の前に、昨日の「聴く」を反芻したくなりました。
マザー・テレサの言葉
もし、ほんとうに祈りたいのなら
まず聴くことを学ばなければなりません。
心の静けさの中で、神は語り掛けられるのです。
その静けさがわかり、
神を聴くことができるには、清い心が必要なのです。
マザーよ、あなたのおっしゃることはよくわかります。
イエスから聴かなくては、ほんとうの祈りは出てきません。
イエスは「日ごとの糧を与えたまえ」と祈るように教えてくださいました。
肉の糧のための祈りを祈ることも大切なのだと、肉の必要や自分の個人的な願いを祈ることは汚れていてレベルの低い祈りではないと、あなたさまは微笑んでくださいます。
しかし、肉の思いから、霊の糧を求める思いへと、私の祈りを引き上げてくださいます。
「ああ、恵みの主を誉めん」と主を讃えないではいられなくなります。
「神を聴くことができるように、私に清い心を与えたまえ」と祈ります。
自分の力では、自分を清めることが出来ないからです。
神であるイエスの御声は、聖書の中にあります。
御言葉を蓄えて来たこと、暗誦したはずなのに忘れてしまった御言葉の数々、それらを時にかなって思い起こさせてくださる聖霊(みたま)よ、ありがとうございます。
瞑想の時間は、神から与えてくださる静けさです。
神を聴くにあたって、聖書は離すことができません。
聖書の言葉、一つ一つに、十字架が立っています。
「はじめに言があった。言は神と共にあった。言は神であった」
27年前「預言の声・聖書通信講座」を学んで、この講座を出しているSDA教会に行ってみたいという思いを起こさせてくださったのは神様でした。
牧師が素晴らしかったとか、教会員さん達が優しかったとか、アットホームな教会だからとか、
よく聞くそういう思いは、皆無でした。訪問したことがなかったからです。
教会の場所も市街地図で調べたのでした。二人ほど教会員さんを知ってはいたのですが、だからと言って教会に関心を持ったわけではありません。
通信講座の中で、聖書の中のみ言葉であるイエスご自身に、抱きしめられたのが一番の理由でした。それまで、宗教としてのキリスト教を嫌っていた私でした。
そんな私を聖書の中の一つのみ言葉が、一瞬で、私を造り変えたのでした。
その年の11月から、毎週、木曜日の午後、T姉妹が私の聖書研究の相手をしてくださることになりました。「ヨハネによる福音書」から学ぶことになりました。
「言」とは「イエス様です」と教えていただいたとき、聖霊が通訳してくださったので即座に分かりました。私は、まさに「御言葉ご自身である」イエス様が私に直接、臨んでくださったという確信があります。
そして、翌年1990年の1月から安息日礼拝に与かるようになり、10月20日に沈めのバプテスマにあずかりました。2017年10月20日は間もなくです・・・
マラナ・タ
神からの語りかけは、直接、私の心に響く時もありますが、聖書から、イエス様が気づかせてくださいます。聖書の御教えがベースになるのです。