ごきげんよう!さわこです

10月4日に「理由が分かると私たちの人生は変わるのです」という記事を投稿しました。

ところが、正反対のタイトルでの投稿です。「逆もまた、反対も真なり」です。

 

先だって、信仰の親友からメールが届きました。

アドベンチストライフ10月号の「雲の柱 十字架を瞑想する祝福」読んだ?アーメンです!

 

早速、読みました。私達は理解できることと理解し得ぬことがあるとわかりました。 

私の心をとらえた部分を紹介します。引用部分は青字です。

 

ホワイト夫人は、十字架を冥想する祝福をこのように述べておられます。

「カルバリーの思いはわれわれの心に生き生きとした聖なる感情を呼び覚ます。神と小羊への讃美がわれわれの心とくちびるに宿る。カルバリーの光景をいつも生き生きと記憶している魂のうちには、高慢と自己崇拝の思いは栄えることができないからである。

救い主の比類のない愛に目をそそぐ人は思いが高められ、心がきよめられ、品性が一変する。その人は出て行って、世の光となり、この不思議な愛の幾分かを反映する。」

 

執筆者の牧師先生は

「この瞑想というのは、落ち着きのない肉の心になんと難しいことでしょうか。十字架のキリストを心に思い描こうとしても、あらぬ雑念が駆け巡り、瞑想がいつのまにか迷走になってしまいます。でも、このような心も、忍耐強くしつけていくと、だんだん訓練され従順になります。そして、朝夕の礼拝の後、15分ずつ十字架を瞑想することにしている。初めは2,3分でも大変だったが、十字架の意味の広さ、長さ、高さ、深さが次第に心に迫ってくるようになると、いつの間にか30分も過ぎていることがある」と書いていらっしゃいます。

瞑想を深める方法として、十字架の讃美歌を口ずさむ。また、イザヤ53章や福音書の十字架の場面を暗誦することなども教えてくださっていました。

 

その昔、座禅断食に参加して、瞑想の訓練を教わったことを思い出します。

15分から20分、ひたすらゆっくり呼吸の数を数える方法で座禅をしました。

心を無にするためにはこの方法がいいのだとご住職は教えてくださいました。数にして、70から80回になります。そのくらいのゆっくりした丹田呼吸です。そのリズムをつかむまでは、数だけ数えるのだと。心が迷い出さないためにはこの方法がいいのだと。

そのリズムが身についてから、私は、主の祈りや、暗誦している聖句、短い聖句「マラナ・タ、主イエスよ、来たりませ」など・・・そうした瞑想の祈りを続けていましたが、いつのまにか15分の瞑想の祈りが、数分になってしまっていました。

継続できない自己の弱さを認めざるを得ません。くじけないで仕切り直して挑戦しようと再決心。今度はイエス様の十字架を瞑想させていただこう。

 

イエス様は十字架にかかられる前夜、ゲッセマネの園で、恐れおののきました。十字架の上では「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」と仰いましたが、ルターはこの言葉を食事もとらずに何時間も瞑想していました。

瞑想が終わった時、夢から覚め人のように深い吐息をつき、こうつぶやいたと言われています。「神が神を見捨てた。誰がこれを理解し得ようか」。

贖罪の神秘は永遠を費やしても理解できないとホワイト夫人は言っていますが、理解できなくても、私たちは主のご功績によって救われているのです。

 

理解できないことのゆえに、苦しみ生きていく力さえ失う場合がありますが、人間の知恵で理解できなくても、理解を超える神の叡智があることを思ったのでした。

「理解できなくても私たちは主の功績によって救われているのです。」

揺るぐことのない神の真理を私たちは聖霊によって受け入れることができるのです。

 

「・・・十字架の下にひれ伏して拝する時・・・自我か砕かれ、自己の栄光を塵に伏させ、主にのみ栄光を帰すようになります。神様の驚くべき愛に感動した心には、いつも静かな喜びが泉のようにふつふつと湧いてきます。それが試練や重荷に耐え、人々を愛し、主に使える原動力になるのです。」

「クリスチャンは誰でも十字架を知っています。しかしそれが単なる知識、観念、教理にとどまっていて、魂を揺り動かし、生活や品性を変えるような感動になっていないのではないでしょうか。十字架を瞑想することは、この壁を打ち破る一つの方法です。」

 

理解することの大切さや力を最近、確認したばかりでしたが「贖罪の神秘は永遠を費やしても理解できない」というホワイト婦人の言葉に、人間の理解を超える大切なものがあるのだと理解したのでした。理解できないことを、聖霊は受け入れさせてくださるのです。

私たちクリスチャンはそれを体験しています。

十字架のイエスを受け入れるとき、私たちの人生は変わるのです。

理解できることと理解し得ぬこと、どちらも神様の恵みによって、私たちのためになるのです。 

マラナ・タ

贖罪の神秘は永遠を費やしても理解できませんが、理解できなくても、私たちは主のご功績によって救われているのです。