ごきげんよう!さわこです
「試みがもたらすことによる私たちの弱さと謙遜の中に
主の恵みと御力があらわれます。」謙遜90ページ
主よ、日々、私の無力さを知らしめ
私が取るに足りない小さき者であることを
悟らせてください。
それは、自我を明け渡していないものにとっては
なんというきびしい試みでしょうか。
試みとは、私にとって、きびしい恵み。
そして、神に完全に依り頼むことが
真実に生きて行くことだと分からせていただけます。
それなのに、謙遜にするすべてのものを恐れ、
そこから逃げ、それからの解放を求めてしまうとは
なんと愚かなことでしょう。
もし、そういう勝手な思いのままに
それはまるで、親の心、子知らず。
神の心を知ろうとしないままにいるのです。
試みの中で、学ぶことを拒んでしまいながら、
神を崇めることができるのでしょうか。
「自我は、決して、自我を追い出すことはできない。
新生した人においてすらそうなのです。」 謙遜87ページ
新生することは、自我を手放すことの ことはじめ。
イエスを信じて神の子としてくださったとき
無意識のうちに、私を占領していた自我を知ります。
「自我を明け渡しなさい」という招きを受け入れます と宣言します。
自我を明け渡させまいとする敵の勢力が働くので、
私たちは大争闘の渦中にあることを知るのです。
「 すべての屈辱を受け入れなさい。
あなたを試み、いらいらさせるすべての仲間を、
あなたを謙遜にするための恩寵の手段としなさい。
あなたの仲間の前に
あなた自身をへりくだらせるすべての機会を
神の前に、謙遜であり続けるための助けとして用いなさい。」謙遜85ページ
主よ、あなたは、
悪しきことも善きことのために
用いてくださいますから、
私は、何も恐れなくていいのです。
「恐れるな、わたしはあなたと共にいる」
それが、私たちの神様です。
「イエスは、謙遜を天から携えてこられました。
イエスは謙遜をこの地上に戻すために来られました。」謙遜11ページ
私たち人類の父祖が、サタンに耳を傾けて「高ぶり」を得てしまったために、
神の贖いが必要になってしまったのでした。
「イエスがしもべのかたちをとられたことが謙遜」謙遜19ページ
マラナ・タ
「高ぶり」が、ほんのひとかけらもない人はいません。
「贖い」を必要としない人は、ひとりもいません。
人間だれもがそうであることに、慣れっこになってしまって慢心してしまうなら、
それこそ「高ぶり」であることを肝に銘じて・・・