ごきげんよくない私です。

ごきげんよう!さわこです、とは言えません。

 

それでも、神は語ってくださいます。

「あなたはわたしに頼りなさい」と。

 

今日も、この声を聞きました。

 

自信過剰は、それと気づかないうちに、

神を信じる者の思いと行動に巧妙に入り込んでいき

活動依存症的な傾向すら、

神のためにお仕えしているのだと思い込んできました。

活動するたびに、その活動のために、神に祈ってきた。

活動は祈りです。と、活動こそが生きた愛の信仰のカタチという旗印を掲げてきた。

そう・・・何をするにも、神に頼って祈ってきた。

神に頼っていると思いながら、

実は人に頼っていたことにさえ気づかなかった。

活動に頼ってきたとは思っていなかった。

活動の充実感に、これこそが信仰の一致だと、

隣人愛の行動だと思って来た。

 

「御心のなりますように。み名があがめられますように。

すべてが神の栄光となりますように。へりくだる心をお与えくださいますように」

 

活動の成功のためにではなく、神ご自身のために祈るようになってから、

私は落胆の沼に落ち込んでしまった。

私の心身は、陰鬱な世界をたゆたいはじめた。

死の陰の谷を歩んでいた。

食欲も活動欲も減っていき、ただただ、横になるばかりだった。

 

しかし、その時にもの心は神に向かう。

ほかに頼れるところなどありはしないから。

私の穢れた心は神に向かう。

 

一日一日を、訪れるままに受け入れ、

私に課せられているのは、汚れたままで、神のもとで憩うこと。

それこそが、我が使命であると神は思い起こさせくださった。

 

私が落胆の泥沼から這い出るために、

手を貸してくれるのは、誰?

 

神しかいないではないか。

今、苦しいのは、不完全な人に信頼して、

落胆の沼に落ちたからではなかったか。

 

イエスの信仰ではなく、

人の信仰マジックに信頼していたのではなかったか。

 

神のもとで静かに座って待つなら、

神と二人だけで時を過ごすなら、

それは、困難な日のための訓練。

さらなる深い困難の時のためのヤコブの悩みの日のための訓練。

 

それこそが、ご再臨を待ち望むものにこそ

与えられた祝福の訓練だと気づけよ。

私の魂よ、孤児のようにおそれおののく私の魂よ。

 

今、私は、信仰の旅路の難所に差し掛かっているのです。

 

「イエス様、それでも、あなたに信頼いたします。

それゆえ、あなたに信頼いたします」

と、今日も告白いたします。

 

神様は、みつばさで覆い、瞳のように守ってくださる。

神様は、恐れおののく私に平安の贈物を差し出してくださいます。

 

 

マラナ・タ

私の魂よ、両手を差し伸べて主のくださる平安を受けよ。