ごきげんよう!さわこです

安息日学校ガイド10課(8月26-28日より)

 

8月26日安息日午後 から

旧約聖書の権威を否定するクリスチャンの理解とは・・・・・・

ここを学びながら、旧約聖書の権威を否定する神学が存在することを知って驚きましたが、その教えを書き出しておきます。

・     シナイ山での律法の授与は福音と矛盾している。

・     シナイ山で与えられた契約は、救いが律法への服従に基づいていた人類史の一期間、一時代を表していると結論づける。

・     しかし、人々が律法の要求に答えられなかったので、神は新しい契約、すなわちイエス・キリストの功績による恵みの契約を導入されたと言う。

 

以上の考え方が一般的であって、支持する人が多かったとしても、それは間違っています

・     救いは律法遵守によるものでは決してない。

・     聖書の教えは、はじめから恵みの宗教でした。

・     パウロが戦っていたガラテヤの律法主義は、キリスト教の曲解でした。

   旧約聖書そのものからの逸脱でした。

 

神様の契約が二つあると表現されるのは、旧約時代・新約時代に関するものではなく、カインとアベルにまでさかのぼって、神様との関わり方には二種類あるという人間の側の問題なのです。

・     カインのように、神を喜ばせる手段として自分の服従を頼りにする人たち。

・     アベルのように、神が約束されたすべてのことを実行するために神の恵みにすっかりより頼む人たち。

 

それをカインの信仰のカタチを「古い契約」、アベルの信仰のカタチを「新しい契約」と表現しているので、聖書を読む後世の人々が混乱するのではないでしょうか?

私自身混乱しました。

ギリシャ語でも「古い」「新しい」とあるのでしょうか?それとも「古い」を古臭くなった時代遅れのもの、「新しい」今の時代に適用したもの、新車、新品、新装、モデルチェンジ、そうした感じで見てしまうから、誤解するのでしょうか?

それとも「古い」には古くから間違って解釈していたとの意味であり、「新しい」は古くから間違えて解釈されていた考えを正規に解釈したという意味でしょうか?

 

サタンによって罪が入って(人間が堕落してから)からは、人は二種類に分かれてしまいました。

罪を犯した親であるアダムからその失敗と悲しみを聞いて、神様に正しく従うことを選んだアベルと、アダムから引き継いだのは過ちの傾向であり、アダムの悔い改めの精神を引き継がなかったカイン。アベル型の人間の信仰を「新しい契約」と呼び、カイン型の人間の宗教を「古い契約」と呼んだのでしょうか?

安息日の午後26日の「今週のテーマ」のわずか半ページの箇所から、こんなに考えてしまいました。

 

8月27日 日曜日 から

・     堕落前のエデンの園において、神がアダムと最初に結ばれた契約の基礎の焦点は、禁断の木の実を食べてはならないという神のご命令でした。 

 

・     この基本的性質は「服従して生きよ」です。

 

・     人は、神と調和するように造られた性質を備えていたので、主は不可能なことは要求なさいませんでした。

 

・     服従は人間の生まれつきの傾向でしたが、アダムとエバは自然でないことを選択しました。の行為において、彼らは創造時の契約を破り、神との関係が断絶しました。

 

・     罪によって堕落した人間は、その契約条件を履行できなくなったのです。

 

・     そこで、神ご自身が神との関係を修復する恵みの契約を成立なさいました。創世記3:15に書かれています。ここは、最初の福音(原福音)です。

 

8月28日 月曜日から アブラハムの契約

・     ややもすると、私たちは、問うことも疑うこともなかった信仰の人として、アブラハムを称賛しがちですが、聖書は異なる描き方をしています。 

 

・     アブラハムの信仰は、成長しつつある信仰だったのです。マルコ9:24に出てくる父親が「信じます。信仰のないわたしをお助けください」と言ったように、アブラハも創世記15:8において「わが神よ、この土地を私が継ぐことを、何によって知ることができましょうか」と言ったのです。

 

・     そこで神は、アブラハムに動物を持ってこさせ、真っ二つに切り裂かれた動物たちの間を通りすぎることによって、神はご自分の命をその約束に掛けられることを象徴的に表わしました。言うまでもなく、イエスはご自身の約束を実現するために、カルバリーで命をささげられました。

 

マラナ・タ

動物を真っ二つに裂く、この記述に、イエス様の十字架が象徴されていることに気づくことができました。

アブラハムの信仰はほめたたられることが多かったので、彼の嘘つきであることなども含めて、釈然としなかったのですが、マルコ9:24に出てくる父親が「信じます。信仰のないわたしをお助けください」の信仰と重ねて書かれていたことで、なぜ、アブラハムの信仰を神様が喜ばれたのかも理解できました。