ごきげんよう!さわこです

安息日学校教課ガイド8月23日水曜日の学びから

 

「聖書の時代にも、病気は神の不快のしるしと見なされていました。」

昔も今も、イエス様の時代のユダヤの国においてさえも、人間側の誰かの罪の結果が、病気や不幸につながるのだという人が必ずいるのです。日本では「お払いをしてもいなさい」と親切なおせっかい好きな人が、その専門家を紹介してくれるなどとは、よくあることです。

「お払いする」とは、悪霊を払うという意味でしょうか。神様に汚れを払っていただくという意味でしょうか。せっかくのご親切ですけれど、クリスチャンは神様との個人的なつながりを持っていますから、人さまにお願いしなくも大丈夫です」とお断りします。

そういう背景があるからこそ、今日のテーマは、いつも心に留めていることでもあります。

そして引用されている聖句も、その都度、どこだったかなあ・・・と探し回る箇所でした。

 

ヨハネ9:1-3

イエスは通りすがりに、生まれつき目の見えない人を見かけられた。弟子たちがイエスに尋ねた。「ラビ、この人が、生まれつき目が見えないのは、誰が罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか。」イエスはお答えになった。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。

 

ルカ13:1-5

ちょうどそのとき、何人かの人が来て、ピラトがガリラヤ人の血を彼らのいけにえに混ぜたことをイエスに告げた。イエスがお答えになった。「そのガリラヤ人たちがそのような災難に遭ったのは、ほかのどのガリラヤ人よりも罪深い者だったからだと思うのか。決してそうではない。言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる。また、シロアムの塔が倒れて死んだあの18人は、エルサレムに住んでいた他のどの人々よりも、罪深い者だったと思うのか。決してそうではない。言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる」

 

ガラテヤ教会の人たちは、パウロが病気で苦しむのを見て、彼を拒絶することも出来たでしょう。しかし、そうではなくパウロを歓迎しました。

パウロが苦しむのを神が許されたのには理由があります。

ガイドは三つの聖句をあげています。

 

① 2コリント4:7-12

ところで、わたしたちは、このような宝を土の器に納めています。この並外れて偉大な力が神のものであって、わたしたちから出たものでないことが明らかになるために。わたしたちは、四方から苦しめられても行き詰らず、途方に暮れても失望せず、虐げられても見捨てられず、打ち倒されても滅ぼされない。わたしたちは、いつもイエスの死を体にまとっています。イエスの命がこの体に現れるために。わたしたちは生きている間、絶えずイエスのために死にさらされています。こうして、わたしたちの内に死が働き、あなたがたの内には命が働いていることになります。

 

② 2コリント12:7-10

また、あの啓示されたことがあまりにもすばらしいからです。それで、そのために思い上がることのないようにと、わたしの身に1つのとげが与えられました。それは、思い上がらないように、私を痛めつけるために、サタンから送られた使いです。この使いについて、離れさせてくださるように、わたしは三度主に願いました。すると主は「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に十分に発揮されるのだ」と言われました。だから、だからキリストの力が私の内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。それゆえ、わたしは弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足しています。なぜなら、わたしは弱い時にこそ強いからです。

 

③ ローマ8:28

神を愛するものたち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。

 

ティモシー・ジョージ「新アメリカンコメンタリー―ガラテヤ書」より

「幾度となく、神は人生の逆境を―病気、迫害、貧困、自然災害や説明しがたい悲劇をさえも―ご自分の恵みを示す機会として、また、福音を前進させる手段として用いてこられた」

 

パウロにおいてもそうでした。多くのクリスチャンたちもそれを体験しています。バプテスマを受けてクリスチャンになったら、世の中で生きて行くにあたって、万事がうまくいくというものではないのです。人によったら、高額の宝くじがあたったとか、商売繁盛、家内安全、健康回復、難病治癒、縁結び、失せもの探し・・・おみくじにある限りの幸運が舞い込むと言うわけでもないのです。でも、そういう人もいないわけではないでしょうけれど。

 

「♦あなたの試練や苦しみによって、どうしたらいっそう主に信頼することができるようになるのでしょうか。あなたにはほかにどんな選択肢がありますか。」という質問に対して、私はこのように答えます。

 

「安息日学校ガイド1課から13課までの暗誦聖句にただただ励みました。聖書通読に取り組みました。毎朝、デボーションノートを綴りました。いつからか、讃美歌に満たされて目覚めるようになり、その歌を記録するようになりました。聖書を読んでいる時に祈りが与えられるようになりました。状況は一向に変わらなくても耐えられるのは、十字架上で主が耐えられたその忍耐によるのだと思います。主に信頼することなしに、生きて行くことなどできるのでしょうか。もうだめだと私の理性も感情も体力も臨界に達するかのように思える時には主が語り掛けてくださいました。その憐れみの内に私は立ちあがってきました。」

 

マラナ・タ

ひとことで言うならば、

み言葉そのもののぶどうの木であるイエス様につながって、毎日、み言葉の内にみ言葉と共に生かして頂くのです。