ごきげんよう!さわこです

信徒礼拝に証しをさせていただくことになって、準備した二つ目の証しです。

この証しも用いませんでしたが、両親の人生を通して、キリストを知ることの素晴らしさを伝えたいと思いました。

こうしてブログに紹介できることをうれしく思います。

 

「そればかりか、わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切をいっさいのことを損失とみています。」フィリピ3:8上句

 

多くの一般的な日本の家庭では、両親や祖父母から「善い人」になるようにと教えられて来たのではないでしょうか。家庭の中で「良い」とは、両親に従い、嘘をつかず、学校や職場で良い成績を収め、アドベンチストホームにおいては安息日には教会に、日曜教会に属する人は日曜には教会に出席することも含まれるでしょうし、それを第一に掲げていると思います。

 

クリスチャン人口が1%であるという日本においては、仏教や神道、日本古来の宗教を家の宗教としている家庭が多いでしょう。

お仏壇や神棚の前で手を合わせることが習慣づいているかもしれませんし、先祖たちの法要や、神社仏閣での参拝も遊山をかねて家族で行ったという思い出もあるかもしれません。

文化が違えば、宗教的礼拝の方法については違って当然ですが、良い人の定義は、多くの国で共通しているのではないでしょうか。

 

使徒パウロは、フィリピ人への手紙3章で自分の民族における「良い人」の定義を用いて、非常に大切なことを述べています。パウロは当時の熱心なユダヤ教徒として、律法を順守していました。良い家庭に生まれ、良い教育を受け、正しい宗教を信じていました。ユダヤの文化にあって、彼はあらゆる点で良い人であり、優れた人でした。それを誇ろうと思えば十分誇れると、パウロ自身語っています。

しかし、それはそれとして、それ以上のものがあると言います。

良いものは良いのですが、それで神を喜ばせるわけではありません。

パウロは、神を喜ばせるためには、イエスを知らなければならないと語ります。

自分の「良さ」は、「イエスを知っていることのすばらしさ」と比べると、ちりあくたのようだと語りました。

神を喜ばせる良い人になるには、自分の義ではなくキリストだけを頼り、このお方だけを望みとしなくてはならないと、何ものにもキリストは代えられません、とパウロは言うのです。

 

 何故、日本では宣教が難しいのかその理由について、私はこのように考えています。

日本は他国と比べても倫理観、道徳観念の強い文化圏です。

戦後、日本人の質が落ちたと言われるようになって久しいですし、近年は悪質な犯罪や、親による虐待や性的な堕落や、高齢者の犯罪も目立つようになりました。

その理由をキリスト教を知らないからだと言う人もいます。

しかし、キリスト教国家の人々の道徳観念が日本人よりもはるかに低いケースの多いことも事実です。キリストを知りながら、キリストに自分を明け渡して変えてくださいと切に願い求めるよりも形式的キリスト教に甘んじているからかもしれません。立派な敬虔なキリスト者は沢山いますから、私がこのように軽々しく言ってしまってはいけないことですが、個人の信仰を国の宗教に肩代わりさせて救われると思うのは、問題だと思います。

 

また、日本では、善い人を表現するのに「クリスチャンみたいな人」という言い方があります。

どうやら、クリスチャンの生き方が尊敬に値すると考えている証拠なのかもしれません。

実際、私の両親や、母方の祖父母は世の中の人たちからそのように言われていました。

そして、クリスチャンでないと知って、驚かれたこともあります。

祖父は毎朝、論語を読む人でした。祖母は細やかな情の持ち主でした。祖父母の深い愛に守られたのは子どもや孫ばかりではなく、親戚縁者や近隣の人にも及んでおり、そのために財産の一部も手放したのでした。祖父母はキリスト教に回心することはなく浄土真宗の信者のままに亡くなりました。    

興味深いことに、祖父の兄一家はクリスチャンであります。祖父の兄、つまり、私の大伯父さんの孫一族は、同じSDA教会の信徒です。孫、ひ孫、ひ曾孫とその信仰は継承されているのです。

 

私の両親は、私がバプテスマを受けてから10年後にキリスト信仰を持ちました。

両親が、何故、宗旨替えをしてキリストを信じるようになったのか。

その理由を私はこのように考えています。

日本人として日本の文化、宗教、慣わしの中で周りからも尊敬されて「善い人」として生きて来た両親が、今まで善いものであると思っていたものが、実は二番目に良いものに過ぎなかったことを、聖霊様に教えていただけたからなのではないだろうか。

 

父は、正しく生きてきたにもかかわらず、60代になったばかりの時に、想定外であったとしか言いようのない、手術のトラブルで、麻酔から覚めず三か月後、目覚めた時には失語症、右半身マヒを負ってしまったのでした。

それから、17年間、母は父の介護を続けました。

そもそも、父が自分の手術を急いだのは、その三か月前に、母が悪性の進行性の胃がんに罹っていることがわかったからでした。

母を看取るために、自分の健康を整えなければと考えたのでした。

死を予告された母が生きながらえ、まさか、父が重い障害をもって17年生きことになろうとは、思ってもいないことでした。

私の身にそうした出来事がふりかかった時は、夫が独立して事業を始めて、まだ軌道に乗っていないときでした。

母は、「泣くよりは笑って生きよう」と気持ちを切り替えて決心を新たにし、障碍者の父を支えたのでした。

旧制の中学校時代からの父の親友たちは「これは医療ミスだから、訴えてしかるべきだ」と深く悲しみ憤りました。しかし、母は父に問いかけました。「おとうさん、皆さんはこう言って怒っているけれど、あなたはどうなの?」父は首を横に振りました。「医者であっても完全な人はいないから、このような結果になってしまうこともある、仕方のないことだから、受け入れようって思っているのじゃありませんか」父は頷きました。

 

そして、両親は、自分たちの負った苦難の意味、試練の意味を、それぞれ心の中で問い続けて来たのだと思います。

いくら、正しく生きたとしても、サタンが王であるこの世の中では、解決しない問題があること。正しく生きようと努力してきた両親の人生は、イエス・キリストを深く知ること抜きには、本当の正しさへの道ではあり得なかったことに、聖霊様は時間をかけて気づかせてくださったのだと

思います。

 

両親より10年早くキリスト信仰を持った私を、神様は両親の救霊のために用いてくださったのだと思いました。

バプテスマのための学びの過程で、父は大学生の時代にはすでに聖書を座右の銘としていたこと、婚約者であった母に聖書を読むように勧めていたことなどが順々にわかってきました。そして数曲の讃美歌を覚えていて、失語症であるにもかかわらず、声高らかに讃美した時には驚きました。

若い頃、父はどこの教会に通っていたのでしょうか。

時代的なことを考えると、もしかしたら、内村鑑三の「無教会派」の集会だったのかもしれないと想像しました。

父は、話せなくなっていましたから、そのことは誰もわからないのです。その時代を知っているはずの父の親友たちも、高齢のため病に伏したり、亡くなったりしてしまいました。

しかし、神様は、私が生まれる前から、両親のための救いの計画を用意していたということは確かです。

 

世間からも周囲の人からも、良い人との評価を受けてきた両親が、神の目にかなう良い人になるには自分の義ではなく、キリストだけを頼り、このお方だけを望みとしなくてはならない、ということを聖霊様の導きによってわからせていただけたのだと思います。

 

マラナ・タ

私の証しは、その都度、ブログに投稿してきました。

今回の三つ以上の証しがあります。

ブログの投稿は、書きなぐったデボーションノートを整理するため、私自身が忘れないためでもありますが、これからはA4サイズ三枚に収めるように、今までの証しを厳選して修正しておこうと思っています。私の遺言になればいいですね。私の終活の一つです。