ごきげんよう!さわこです

信徒礼拝に備えて、最初に書きあげた証「聖書通読によって与えられた識別の霊」 

ですが、この証しは使いませんでした。

その理由は、聖書通読箇所によって、示されたからです。

ローマ書14:22

「あなたは、自分が抱いている確信を、神の御前で心の内に持っていなさい」

この聖句によって、この証しは、神の御前で私の心の内に納めておくべきだと思ったのでした。

礼拝の時に証しすべきではないけれど、私にとっての大切な証しとして、ブログに投稿することは、神様はお許しくださると思えるのです。

 

あかし 聖書通読によって与えられた「識別の霊」 

 

私は聖書通読を始めてから15年になります。年に何回も通読をなさる方もおられると聞きますが、私は年に1回です。クリスチャンとなって初めの10年間は聖書通読ができていませんでした。しようと試みるのですが挫折してしまうのが常でした。安息日礼拝や家庭集会、祈祷会、講演会で聖書を学びますし、ホワイト婦人の書物も読みます。安息日学校の教課もありますし、その他の信仰書も読みますから、次第に通読なんてしなくても、大丈夫じゃないかしら・・・と安易に考えるようになっていきました。

 

しかし、ある時、神様は私に聖書通読を始めなくてはいられない熱き思いを起こさせてくださいました。そして、私にぴったりの聖書通読表も備えてくださいました。

 そのような思いを起こさせてくださるのは、聖霊の神様です。「聖書通読を毎日、続けさせてください」この祈りは確実に聞かれました。15年間続いているのですから。このことは私だけに限った特殊なことではないと思います。

私は神様のために何を為すべきだろうか?と迷うならば、「神様、あなたの御心に適った思いを私たちに起こさせ実現に至らせてください」とお祈りしたいと思います。

 

聖書通読中に神様はたびたび祈りをくださいます。その一つを紹介したいと思います。それは多分12回目の通読の時であったかと思います。

イザヤ11章を読み始めた時でした。イザヤ書111節から3をお読みします。

「エッサイの株からひとつの芽が萌えいで、その根から一つの若枝が育ち、その上に主の霊がとどまる。知恵と識別の霊、思慮と勇気の霊、主を知り畏れ敬う霊。彼は主を畏れ敬う霊に満たされる。」

 

ここの聖句から、私は「自分のための祈りとしなさい」とのイエス様の御声を聞いたように思えて私はこのように祈りました。

 

「主の霊よ、私の上にとどまってください。知恵と識別の霊、思慮と勇気の霊、主を知り畏れ敬う霊で私を満たしてください」

 

聖書通読によって、イエス様との交わりが深まるにつれてこのような恵みの体験が起きます。この祈りを神様から頂いたことを安息日学校での分級で小学5年生だったhanaに打ち明けました。この日の私のクラスは彼女と二人でした。hanaは目を輝かせてこの祈りを自分も祈りたいと言ってくれました。中学生になったhanaは今も私の信仰の親友です。

 

実は、神様は、私が願い求める前から、この識別の霊を私に与えてくださっていたことを思い出しました。

 

フィリピンの某牧師と日本の某牧師が教育里子支援の協力会を立ち上げ、私の所属する教会もその働きに賛同して、多くの方々が教育里親となって子どもたちの学費の支援をしています。私がその集金係をさせて頂くようになって、かれこれ20年くらいになるでしょうか。2002年のこと、フィリピンの小学校には楽器が無いと聞いて、日本には小学校で使ったメロディオンやピアニカがどの家庭にも眠っているからそれを送ろう!と盛り上がりました。楽器が無事に集まりフィリピンに送る段になって郵送費が沢山かかることが分かりました。その費用をどのように捻出しようかと相談しました。一番手っ取り早い方法は、教会員の皆さんに窮状を訴えて協力していただくことです。

 

当時私は、ジョージ・ミュラーの伝記を読んでいました。ミュラーはイギリスに聖書の普及のために聖書協会を作り、また、孤児院も作った有名なクリスチャンです。孤児院の費用が足りなくなったとき、世の中の富裕層に献金を申し出るのではなく、職員たちが集まって神様に祈るのです。すると、不思議なことに、その窮状を知らない人から、卵やパンが沢山届いたり、お金が送られてきたりすると言うのです。物品や金銭を届けた人たちは一様に、何故かわからないが、そうしないではいられない気持ちになったとか、そうしなさいという声が聞こえたからだというのです。そこで、ジョージ・ミュラーに倣ってこの祈りにチャレンジしてみようと提案したのでした。教会の皆さんに祈りの協力をお願いしました。まだまだ、金額が足りていない時に、その不足分が与えられるかのような出来事が起きたのでした。

 

文書伝道者のKさんが、サインズの更新に行った先で、さわこさんに渡してほしいと沢山の硬貨を預かって届けてくれたのです。そのお客さんHさんはフィリピンの教育里親の一人であり、長年にわたっての教会福祉募金協力者であり、アドラへの募金もしてくださっていました。

私は「こんなにも早く祈りが聞かれるなんて!楽器を送る送料の問題はもう解決しました!神様ありがとうございます!」と有頂天になりました。

そのときです。「ちょっと待て!そのお金の本来の行き先を確認したのか。あわてるな」という思いが湧いてきたのです。

「Kさん、私、Hさんにこのお金でフィリピンに楽器を送ることができます。ありがとうございますってお礼の電話を入れたい気持ちなのです。事情を説明したら、きっと、そうしてくださいと言われると思います。しかし、心が騒ぐのです。早まるなと聖霊さまがおっしゃるような気がするのです。今から、一緒に祈ってください。『神様、私は今からすぐに、そのお方に電話をしてお礼を言います。しかし、楽器の送料のことは何も言いません。そして、このお金は何のために用いましょうか、とお尋ねします。私の願いではなく、神様のご計画がなりますように。』」と祈りました。Kさんはアーメンと声をあわせてくれました。

 

電話をしたら、どうだったと思いますか?

「そのお金はアドラの1週1食募金です」とはっきりとお答えになられたのです。

 

私の体はがくがくと震えました。サタンに惑わされるとはこういうことなのだろうか。

普通に考えたら、ちょうどのタイミングで届いたお金です。

祈りが聞かれた!速やかに聞かれた!と思いたくなるようなことです。

楽器を送る送料の不足を話したら、きっと『是非ともそのためにお使いください』と言ってくださったことでしょう!

私はそのようにお願いしたい誘惑に駆られていました。

でも、それは卑怯なことだ、人の善意に付け込もうとする私の汚れた思いではないのか、と感じられて仕方がなかったのでした。

 

パウロはローマ14:22に「自分の決心にやましさを感じない人は幸いです」と書いていますけれど、まさに、やましい思いがしたのでした。

 

聖霊様は私の心を騒がせてくださって、識別の霊が私に注がれたのではないかと今になって思うのです。神様の恵みが働いて、私をサタンの誘惑から守ってくれるとはこういうことなのかと思いました。サタンは光の天使を装います。偽物を本物のように偽ります。聖書の言葉が思い出されました。

 

その頃、私は1回目の聖書通読にチャレンジしていましたが、イザヤ書11章1から3節の祈りもまだしていませんでしたし、識別の霊を求める重要性にも気づいていない時でした。

しかし、神様は聖書通読をはじめたばかりの私の信仰を顧みてくださって、サタンの惑わしから守ってくださったのではないかと思いました。

 

聖書通読をするようになると、神様にチャンネルを合わしやすくなるように聖霊様が働いてくださるのではないでしょうか。霊性を養い、霊的感度を磨いてくださるのではないでしょうか。恵みが働くとはこういうことをいうのかもしれないと思いました。

 

終末の時代です。サタンはますます活発に働いています。クリスチャンはサタンにとって標的となります。ですから、識別の霊を求める祈りが大切なのではないでしょうか。人知を超えた神様の愛が、私たちに聖書通読チャレンジへの熱意と識別の霊を求める祈りへの願い起こしてくださり、キリスト様を頭とする私たちの教会を造り上げて、終わりの時に備えさせてくださいますようにとお祈りします。

 

マラナ・タ

聖書通読と識別の霊を求める祈りは、私にとっては大切なことでした。

でも「それはあなたにとっての限定であり、他の人に勧めるなんて、分を過ぎていますよ。自分の基準で考えてはいけないのよ。いろんな人がいるのだから、配慮した発言が必要なのよ」と注意をされるような、そのような譴責が聞こえるような気がしてしまったのでした。

それが、神様からなのか、私の妄想なのか、分からないのです。