ごきげんよう!さわこです。
箴言5章15―17節
口語訳
あなたは、自分の水ためから水を飲み、
自分の井戸から、湧き出す水を飲むがよい。
あなたの泉を、外にまき散らし、
水の流れを、ちまたに流してよかろうか。
新共同訳
あなた自身の井戸から水を汲み
あなた自身の泉から湧く水を飲め。
その源は溢れ出て
広場に幾筋もの流れができるであろう。
その水をあなただけのものにせよ。
あなたのもとにいるよそ者に渡すな。
昨日の聖書研究会は箴言5章だったと聞きました。
その集会はとても恵まれていると聞いていましたが、
私は時間的な都合がつかず、いつも残念に思っています。
その午後、遠方にお住まいの信徒訪問があり、牧師とご一緒したのです。
道中の車の中で、牧師が語ってくれたのでした。
「いやあ、さわこさん、今朝の集会、ものすごく恵まれましたよ。
聖書では、水は聖霊を表し、女は教会を表わしますね、その説明をした後で、ここから何を思いますか?と訊ねたんですよ」
「すると、K子さんは『十人のおとめに出てくる愚かな5人のおとめを思いました』。それを聞いて、最年長者のS恵さんは『あらあ、私も同じよ』。A美さんは、『私は水を撒き散らすと言う表現から、水を薄めてしまう行為を思いました』と言われたのですよ」
私は、後ろの座席から、思わず身を乗り出して
「先生、素晴らしいことがおきていますね。聖霊の導きがあればこその発言ですよ!人の智慧ではありませんね!ああ、その場に一緒にいることができなかったのは残念を通り越して、私、妬ましいほどです!」
「そうでしょうねえ」と先生は微笑まれました。
後部座席からは勿論、表情は見えませんが声のトーンでわかります。
「私たちの教会は聖霊の風が吹いていますね。何とうれしいことでしょう!」
風は己が好む所に吹く(ヨハネ3:8文語訳)
ところで箴言って・・・」と、私は、26年前にバプテスマを受けて以来の『箴言』について感じてきたことをお話しました。
「信仰を持って始めの頃は、箴言を道徳的なことや、人生の戒めを語る書のように思って読んできました。読みながら、自分は、さも正義漢であるかのような高慢な気持ちになって、人を『裁く思い』に捕われてしまったこともありました。箴言は聖霊の導きを特に求めて読まなければ、人生教訓書、道徳書、処世訓になってしまいますね。さばきの道具に使われかねないなあって次第に思うようになったのです。」
15節―17節の訳は、リビングバイブルでは、このような意訳になっています。
「だから、自分自身の井戸から水を飲みなさい。
妻を裏切ってはいけません。
通りすがりの女に子どもを産ませてもいいのですか。
妻でもない女との間に子どもがあってもいいのですか」
不倫の戒め、清い夫婦関係のすすめを書いていると、先ずは思ってしまい、そこで止まってしまったら、箴言が聖書に載っている価値は半減するのではないでしょうか。
現代社会の男女関係は、ずぶずぶぐちゃぐちゃなケースが目に余ります。
週刊誌も、テレビのワイドショーも、日本の危機から目を逸らさせようとの意図なのか、と勘ぐってしまいたいほど、そのような報道が持ちっきり。
そういう関係の情報を見続けているうちに、道徳観念が次第に麻痺していくようでもあります。人は見る者に影響されてしまう傾向がありますから。
その昔、不倫ドラマが流行った時、ある若い女性が不倫をしていることを、ちょっと誇らしげに話していて、驚いたことがありました。
流行は、それだけで価値があるように受け入れてしまう若い人がいるのです。
報道の自由などと主張しながら、サタンの手の内に弄ばれている人間の姿を見ます。
かつて、祈祷会で、聖書はどの御言葉にも「十字架」が立っている、と信仰の先輩S恵さんが仰いました。その時に、十字架に関することを一つ一つの御言葉から見つけ出すことが、聖書の正統的な読み方だと気づかせていただきました。
ですから、箴言も処世訓、道徳書以上の読み方が、福音としての読み方があるのです。
その日の聖書研究会のメンバーは、全員女性にもかかわらず、
不倫する夫への戒めとか、女遊びをする夫への勧告だとか、そうした読み方ではなく、福音として捉えたのでした。
「あなた」を教会員である私自身として読み、「自分の井戸」「自分の泉」を「キリスト信仰、教会、神」というふうに理解し、「水を汲む、泉から湧く水」純粋な信仰と読み、聖霊に満たされて信仰を成長させていただき、ご再臨を待ち望み、ご再臨に備えるのです。
「よそ者に渡す」「水を撒き散らす」を自分の神様を大事にしない、一番にしない。
「神の義と神の国を先ず求めず」に神以外のものを一番にする。神を後回しにする。
そんなふうに生きているといつの間にか、信仰が薄くなってくる。
次第に神無しの生き方でも、平気になってくる。
十人のおとめの内、五人の賢いおとめは余分の油(聖霊)を入れた壺を持っていた。
愚かな五人のおとめは、余分の油(聖霊)を持とうとしなかった。その必要性にも思いつかなかった。自分の信仰に満足していた。
聖霊を日々求めなくても、一度頂いたら自動的に聖霊が満ちてくるかの様に思っていた。
信仰を捨てたわけではない。自分の信仰が弱まり薄まっていることにすら気づいていなかった。その日の研究会のメンバーはそういうことを聖霊様から教えられて語り合ったのでした。
今朝はいつもの通読箇所を読み終えた後、昨日牧師から伺った箴言五章を読み、メンバーの意見を振り返っていましたが、次第に矢も楯もたまらずメールを送ったのでした。
すると、A美さんから「三人集まれば文殊の知恵ですよ」と、返信が。(笑)
さわこ 「いにしえの日本人は、神を信じる心で集まって、相談していたら、神様の知恵が注がれるってことを知っていたのね。だから『三人寄れば文殊の知恵』なのね。日本人って素晴らしいね。『二人または三人で、わたしの名のもとに集まるならばわたしも共にいる』とイエス様は仰いましたが、その真理を体験したのね。」
A美さん 「そうそう!私も昨日のことを振り返りながら、私も同じことを考えていました。御言葉の話をしてくれること神様はうれしくて傍に飛んできてくれて一緒にいるのですね。」
さわこ「ハレルヤ。私たち同じ御言葉を考えていたのね。私たちが神様の愛に結ばれている証拠だと感謝です」
A美「追伸。昨日の聖書研究会で思ったこと。神様はいつも聖霊様を送ってくださっているということを実感できたことです。先日皆さんの前で証しをした時も聖霊様を強く感じていました。いつも祈り求めなくてはいけませんね」
さわこ 「アーメン」
マラナ・タ