ごきげんよう!さわこです
一昨日の日めくりカレンダーは
「兄弟愛をもって互いに愛し、尊敬を持って互いに相手を優れた者と思いなさい」
ローマ12:10
ふと思い出しました。ちょっとやっかいな思い出です。
「どんな人も、自分より優れているのだから、相手を常に尊敬しなさい」と教える人がいました。
「尊敬ですか?」 とびっくりしました。
「尊重しなさいなら、わかりますが、尊敬しなさいとは、無理です」。
と言ってしまいました。
その言葉は、ローマ12章10節が根拠のようでした。
私は、人を比較するのは嫌いです。
人はそれぞれ、その人にしかない持ち味をもったユニークな存在ですから、比較などできないのです。
でも、学校教育も、世の中も、比較することで、価値を定めがちです。
人を比較して、優れているとか、優れていないとか、決められないじゃないですか。
確かに、「自分はオッケー、相手はオッケーでない。」このような精神構造の人が多いですから、パウロはあえてこのような表現で諭したのではないでしょうか。
「私は、どんな人よりも劣っています。私の意見よりも他者の意見の方がいつも正しいのです。自分の意見を主張するならば、高慢になります。自分以外の人すべては、自分より優れているからです」
と理解してしまったら、どうでしょう?
「相手はオッケー、自分はオッケーでない。」という自己否定です。
聖書は自己否定を勧めていますが、その受け止め方が個々によって違うなあと思うこともあります。
その「自己」とは自己中心の意味ではないでしょうか。
「わたし」という自己存在そのものを否定するのではないと思います。
昔、ある年長者から、厳しい譴責を受けました。
明らかに、誤解、もしくは見解の違いだと思いましたので、自分の立場を弁明しましたら、説教は延々と続きました。
私は、面倒になってしまって「はい、わかりました。私が間違っていました。責任をとります」と言いましたら、ニッコリ笑顔になって、「やっとわかってくれましたね。」と説教は終わりました。
半ば、私は意地になって責任をとりました。
私の謝罪が本心からではないことは神様はご存知でありまして・・・
世の中には、このようなことがしばしばおきるものです。
自分の正しさを主張し通すことは、さらにやっかいなことになる場合もあります。
相手の間違いを承知して、自分の正しさをひっこめることがあります。
長い目で見れば、損して得をとれ、ということでしょうか?
人間関係で面倒なことに巻き込まれたとき、
「尊敬を持って互いに相手を優れた者と思いなさい」
この御言葉でアドバイスされることがあります。
こういうときの、こういうアドバイスは、いささかキツイものです。
聖書の言葉の用い方について考えてしまいます。
でも、相手は善意からですから・・・聞き流して
私は、尊敬を尊重と言い換えて納得することにしています。
マラナ・タ
聖書の訳は難しいですね。
一部分の聖句を強調しすぎると、時には「???」となることもあります。
聖書の言葉を用いてのアドバイスもまた、安易にはできないなあと思う今日この頃。