ごきげんよう!さわこです

昨日の、日めくりカレンダーの御言葉

 

正義を行い、慈しみを愛し 

へりくだって 神と共に 歩むこと

これである。

                        ミカ書  6:8

 

なんと、あたりまえの 教えだろう。

私は、ごくごく、普通の日本人家庭に育ちました。

 

正義を行いなさい

人には親切に  思いやりの心を持って

偉そうな態度は、恥ずかしいことだ

 

母の口癖  「実るほど頭が下がる稲穂かな」

 

私の答え  「実ってもない私ですけど・・・

         頭が下がるのは、それを自覚しているのに過ぎないのですけど。

        というよりも、偉ぶれるものを持っていないんですけれど。

        私、何をやらしても無器用で、頭の悪さは、突然変異ですね。」

 

母      「悪かったね、私に似たのよ。お父さんに似たらよかったね。残念」

 

母と娘は  爆笑

 

「おてんとうさまが、見ているよ」

「天に唾すれば、自分にかえってくるよ」

 

どこの日本人家庭でも、親や年寄りが、子や孫に言っていた言葉。

頂き物があれば、先ず、神棚か仏壇にお供えした。

 

やがて、聖書研究をするようになって、私はイエス・キリストなる神をわが神とは受け止めた。

 

カトリックの学校で幼稚園・小学校と9年間過ごしてきた大学の先輩は

何かことが起きた時、シスターは祈祷室に誘って、こう諭したのだと、私がクリスチャンになったと知った時、話してくれた。

「あなたのしたことをイエス様の前でよくよく考えてごらんなさい。

自分自身にとって恥じることではなかったかどうか」

 

ある人はクリスチャンになって「十戒」を知った時、

第一条「私のほか誰も神としてはいけない」

第二条「偶像を造ってはいけない」

「私は神でないものを神として拝して生きてきました。何が正しくて何が間違いであるかもわかっていませんでした」とお話された。

 

ところが、私はその方のようには思えなかったのでした。

仏教は偶像礼拝、神道は多神教だから、

間違った神を拝む日本人、などとは思えなかったのでした。

 

「本当の唯一の神を知っても、神以外のことやものに執着してはならぬ。形あるものにうつつを抜かしてはならぬ。自分に自信を持ちすぎて自己中心になっては利己主義というものだ。お金や仕事、趣味や、いろいろさまざまな活動に身も心も消耗しすぎては、それらが神のようになってしまうばかりか、燃え尽きちゃうよ」そんなふうに理解した私。

 

神社仏閣を参拝することは、真実の神に背くこと、そういうふうに理解している人たちも、

お正月に「注連飾り」や「門松」を立てることも悪霊を呼び込むと信じている人もいました。

 

日本人の信じる神仏入り乱れた宗教をイザヤ・ベンダサンは「日本教」と名付けています。

日本教徒の中に真実のキリスト教徒がおり、キリスト教徒の中に偽教徒もいるかもしれないのです。それは、神のみぞ知る世界であり、イエス様のご再臨の時に分かるのです。

それまでは、麦と毒麦の区別はつかない。人間がとやかく区別してはならないのでしょう。

 

「日本人は、天体、自然、動物、死者、何でもかんでも神にしてしまう、いいかげんな人種」のように言う人もいました。

「日本人は無神論者であることを知者、教養人のように思っているけれど、世界に出て『私は無神論です』というと軽蔑されるのよ。そんなことも知らないで、無神論者だと言う人が多いのよ」と説明する人もいました。

 

人間は、その行動に心が反映されます。

ならば、キリスト教を信じる欧米列強諸国が、世界中を植民地としてきたこと、アメリカの先住民を皆殺しにしたこと等々はどうだ?

敬虔なキリスト教信者も、自己犠牲的な信者も、たくさんいる。

キリスト教徒全部が全部、悪でもなければ善でもない。

それは、仏教徒にしたってそう。日本人にしたってそう。

一握りの人の行動の故に、キリスト教や仏教、イスラム教などなどの宗教を軽蔑したり、

一握りの日本人の故に、日本人全体を貶めたり、無茶苦茶ではないか。

 

旧約聖書の ミカ書6章8節

正義を行い、慈しみを愛し 

へりくだって 神と共に 歩むこと

これである。

 

これは、組織として、神学として、社会的に承認された聖書を掲げる宗教団体だけの専売特許的教えではない。神様が、人類全体に「これである」と語りかけている。

 

自分を小さい者と認めこころへりくだったものたちは、

「まことに、まことに、その通りでございます。」

とひれ伏し受け入れざるを得ない大いなるお方のお言葉です。

ところが、実行することは、とても難しいのです。

そのことを自覚して七転八倒して苦しむ者にとって、イエス・キリストなるお方を知ることで、闇から光を見いだせる。

 

人が人としての道を如何にして歩めば、人が人で在れるのか。

「正義を行い、慈しみを愛し、へりくだって 神と共に 歩むこと これである。」

 

この御言葉を私なりに解説するならば・・・

「神と共に歩むなら、神の恵みによって、あなたは正義を行わないではいられなくなる。

そのために、損失をこうむることもあるであろう。それでも、神の道を歩むならば、その苦難のうちに神を見いだすであろう。

神の愛を受けるならば、神の慈しみがあなたを被う。あなたから神の愛が流れていく。

それは、あなたの力ではない。自分は無力で小さく不完全で取るに足らぬもの、と自覚できるなら、神と共にいなくては生きて行くことができないとわかっているならば、あなたはへりくだる者だ。そのとき、あなたは神と共に歩む者となっている」

 

神の本質につながるということ、それがキリストの道。

 

マラナ・タ

「形式的、外面的に、信仰生活を過ごすならば・・・あなたの中にリバイバルは起きない」

2017年春の祈祷週読み物で学んだ重要なことを、日めくりカレンダーの御言葉を読んだときにつながってきました。