ごきげんよう!さわこです

 

バプテスマクラスで学んでいる二十歳の青年がいます。

牧師が居る時は、牧師が。

不在の時には、信徒が、バプテスマクラスのテキストを用いて、共に学び合います。

牧師から、「時間は15分で!」時間厳守!と言われています。

 

先週から3回にわたって、私の担当になりました。

私は、タイマーを15分にセットして、始めることにしました。

彼は、お母さんのお腹にいるときからの付き合いです。

私は、彼のお母さんが小学生の時からの付き合いです。

私たちは遠縁にあたります。

きっと教会生活をしていなかったら、交流もなかっただろう遠い親戚。

でも血は繋がっています。

彼の”ひひ祖父さん”は、私の”お祖父さん”のお兄さん。

大家族時代ならばともかく、現代では、近所に住んでいない限り付き合いなどないであろう間柄。

キリスト様につながることで、私たちは神の家族です。

 

先週は、

罪とは何か?どうして罪が侵入してきたか?

サタンの誘惑によって、人は神に背いて神から逃げ隠れするようになったこと、それが罪。

罪とは「神様との関係の断絶」であることを学びました。

 

今週は

「神との関係の回復」の学びです。

今朝の聖書通読は、ローマ書3章。

小見出しには「信仰によってのみ救われる」とあります。

私の15回目の通読はリビングバイブルを用いています。

信仰による救いとは、すなわち「神との関係の回復」のことです。

リビングバイブル訳が実にわかりやすい。

明日は彼とここを読むことにしようと決めました。

 

一部を紹介します。

・     3:19「・・・事実、全世界は全能の神の前に沈黙して立ち、罪の宣告を受けているのです。」

・ 3:20「・・・律法は私たちに、自分が罪びとであることを自覚させるのです。」

 

律法の書とは聖書を指します。

イエス様の時代もローマ書をパウロが書いた時代も、聖書(律法)は、今で言う旧約聖書を指しました。

創世記3章は罪の侵入について書かれているので、何故、全世界が罪の宣告を受けているのかが、よくわかるのです。

 

・     3:22「・・・神は今、『もしあなたがたがイエス・キリストを信じるなら、あなたがたを受け入れ、罪のない者と宣言する』と言われます。どんな人間であろうと、私たちはみな、キリストを信じるという、この方法によって救われるのです。」

 

・     3:24「・・・もし私たちがキリスト・イエスを信じるなら、このキリスト・イエスが、恵みにより、無償で私たちの罪を帳消しにしてくださるのです。」

 

・     3:25「神はキリスト・イエスを遣わして、私たちの罪に対する償いをさせ、私たちへの怒りをとどめてくださいました。神は、私たちをご自分の怒りから救い出すための手段として、キリストの血と私たちの信仰とを用いられました。・・・キリストが来て人々の罪を取り除く時を、神は待ち望んでおられました。」

 

・     3:26「そして今日も、神はこの同じ方法で罪びとを受け入れてくださいます。イエスが彼らを、義と認めてくださるためです。」

 

さあ、ここで「義」という言葉が出てきました。

ここで、彼に「義」についての考えを聞かせてもらおうと思います。

この聖書研究は、讃美歌「神の国と神の義を」を歌って始めています。

この歌は、若い人にもとても愛されている短い讃美歌です。

彼の考えている「義」を聞いてから、必要とあらば、補おうと思います。

 

・     3:31「・・・私たちはイエスを信じてこそ、ほんとうに神の命令に従うことができるのです。」

 

彼の妹や従弟は、小学5年生の時にバプテスマを受けました。

その時に、彼も誘われたのです。

しかし、まだ彼にとっては「時」でなかったと思います。

彼が、従弟や妹が受けるから、という理由で、何となく流されて受けなくてよかったと思いました。

二十歳になって、大学生になって、祖母にそれとなく促されたとき「バプテスマクラスの聖書研究」をしてみようと思えたらしいのです。

とても若い牧師が赴任して来たことも彼にとって、その気になる理由だったかもしれません。分かりませんけれど。

 

私は彼に聞いてみました。

「いつかはバプテスマを受けるかもしれないなあ、って考えていた?」

「うん、小さい時から教会に来ていたし、妹や従弟や、他の友達も次々と受けて行ったし、僕もいつかクリスチャンになるかもしれないなあ、って思ったことはあったよ」

しかし、彼は、中学高校生の時代は、年に数えるくらい、気が向いたときしか教会に来ませんでした。

 

大学生になった時から、来る回数が何とはなく増えていたのです。

でも、一番後ろの椅子の、さらに後ろにパイプ椅子を持ってきて、出口近くに座っていました。彼の心の所在地を示しているかのようでした。

 

昼食の時には、台所仕事を積極的に手伝うようになっていました。

おうどんの準備や、どんぶりを洗ったりしている後姿を見て、なんだか、台所が明るくなるようでした。彼の心が、神様に少しずつ近づいているように見えました。

 

 

マラナ・タ

明日の安息日礼拝が楽しみです。

礼拝後の「彼との15分」が待ち遠しいです。