ごきげんよう! さわこです。

この「なあなあ」について・・・まだまだ神様は私に気づきを与え続けておられます。

 

牧師のこの表現は、私の心をするどく突き刺しました。

「なあなあ」を神様の寛容さ、豊かなあふれる愛であるかのように思いたい自分に直面したからです。

そのように、自分に都合よく神の姿を勝手に修正していることに気づかされ、心が刺されたのでした。

 

それはEGホワイトの言葉によって、明瞭になってきました。

 

① 神は、なまはんかな従順をお受けになることができない・・・

 

② 戒めから離れ、世俗のものと、神聖なものとを区別しない者に、神はのろいを宣告しておられる。  「その終わりはついに死に至る道となる」(箴言14:12)のである。

・・・呪いとは死に至る道すじ。

 

③    自分の罪の言い訳をしようとする罪人に対してまちがった同情を示す者を、神は責められる。

・・・ここです!ここです!本人は間違った同情とは気が付きにくいのです。やさしさ、寛容、と思いたい。サタンはそこに忍び寄るのです。また、同情が得られなくなったとき、「冷たい」「心を傷つけた」「クリスチャンらしくない無神経さ」と非難をされることを恐れる人間の本能に、サタンは働きかけるのです。そして無意識のうちに護身の発言をしてしまう。その結果は、お互いに、間違った同情を「愛」「寛容」「やさしさ」と思い込む。

 

④ 罪には道徳的な感覚を失わせる作用があり、そのために悪を行う者は、その罪の大きさを自覚しない。そして、それを悟らせる聖霊の力がないので、彼は自分の罪に対してなかば盲目的な状態に陥っている。罪びとの目を盲目にさせて警告の効力を失わせる者は、そうすることが自分たちの愛の証拠であるとうぬぼれがちである。

・・・③の続きともなりますが、サタンは人の癖や傾向を知っていますから、間違った同情を「愛」と錯覚させるのかもしれません。まさか、この人間愛が罪につながっているとは?  

サタンのあまりの巧妙さにタジタジ・・・

 

⑤  このような罪に陥っている者に、その危険を教えるのは、キリストのしもべたちの務めである

・・・いつも、ほんもののキリストの精神につながっていなくては、その危険に、気づくことは難しい。毎朝のキリストとの交わりである密室の個人礼拝である祈りの時がどれほど大事であるか。EGホワイトの読み物がどれほどの気づきへと導びかれるか。

 

⑦ しかし、実は、彼らは神の聖霊のわざに正面から対立して、これを妨げるために働いている。彼らは、罪びとを欺いて、滅亡の断崖に憩わせている。  この間違った同情の結果、実に多くの人々が滅びに陥ってしまった。

・・・自分の霊性がくもっているならば、何時でも違った同情へと流されてしまう。霊性が曇ると言うことは、聖霊を無意識に拒むこと、聖霊に正面から対立する結果となるとは!

 

⑧    もしもナダブとアビウが、初めから酒を欲しいだけ飲んで半ば泥酔状態になっていなければ、この致命的な罪を犯すことはなかったであろう。

・・・ここを飲酒の弊害という枠にとどめるのではなく、酒を活用しなくても、サタンは酒の代用品を用いることを覚えなくては。

それは、自己愛、自己顕示欲、自我、それらに心地よく迫ってくる。

エデンでエバにささやいたように「食べるに良く、目には美しく、賢くなるには好ましく」思わせるのです。

 

EGホワイトを合わせ読むことによって、聖霊様は理解の深みへと導いてくださいました。

“なあなあ”とは、 “なまはんかな従順”  “人間的な同情”  “聖と俗の境界線をあいまいにする” “神の聖を人間の標準に引きずり下ろす” ことなのだと気づいて、衝撃を受けています。

 

神様は人間のそうした弱点をご存知で、サタンがそこに付け込むこともご存知ですから、私たちの心を鋭く刺し通すことで、私たちに気づいていないものを気づかせてくださって、神様に自分の罪を告白できるように導いてくださるのです。

罪を告白できること、悔い改めの祈りをすることが、神様との隔ての壁を崩すことになり、イエス様の十字架の贖いに応答することなのですから。

 

マラナ・タ

今回は、それが分かるために、ずいぶんと苦しみました。

「愛する者を神は訓練する」という御言葉を体験しています。

今もその痛みの後遺症がありますが、それを感謝して受け取れますようにと祈っています。