「主よ、御手を持って、苦しむしもべをお救いください」

今は、ただただ、その願いだけが、私の心を支配しています。

 

詩編17編の14節
「主よ、み手をもって、人々からわたしをお救いください。
すなわち、自分の分け前をこの世で受け、

あなたの宝をもって、その腹を満たされる

世の人々から私をお救いください・・・」

この世で富を得ている人、サウル王は、ダビデを妬み、ダビデの命をつけ狙い苦しめました。

サウル王は、王として神から油を注がれイスラエル王国の初代の王となりました。

それは、主の御心ではありませんでしたが、イスラエルの人々が近隣の諸国が王を抱いた国造りをしているのを見て、自分たちも王を欲しいとねだったのを主が不承不承許されたからでした。しかし、サウルはその心が神から離れて行き、神の霊はサウル王から去りました。代わって、ダビデに主の霊が注がれて、サウル王の妬みを買うことになったのでした。

正しい者が、正しくない者に、命をつけねらわれ、逃亡の歳月を送ることとなりました。

詩編には、その時代のダビデの苦しみの歌が、いくつも詠われています。

 

持てる者が正しくて、持たざる者が正しくない。

あるいはその逆で、持たざる者が正しくて、持てる者が正しくない。

そういう基準で、世の中の人々の正義をはかることはできません。

 

しかし、
持てる者が、持たざる者に圧力をかけ、暴力、虐待、搾取、蔑みetc・・・

それが、世の中の多くの現実です。

人間の歴史が、なにより物語っています。


中流層が大半だと言われた日本社会も両極化されるようになり、貧富の差が激しくなったと言われるようになって久しい。

若者たちの就職先が無い一方、人手不足が叫ばれています。


人生の幸せや満足はこの世の富の度合いによるのでしょうか。
そうとも言えるし、そうとも言えない。

その日に食べるものも事欠く人々にとっては、「人はパンだけで生きるにあらず」などと、御高説を垂れられても、その精神主義に高ぶりを感じて、不快になるばかりではないでしょうか。

贅沢をできなくても、その日その日、つつましく生活していれば飢えるわけではないという人々なら、「人はパンだけでは生きられない。心の充足感が必要なのだ」と思うでしょう。

究極の心の満足は、神との関係を、地上の富よりも上に位置付ける時にこそ得られるのだと思うのです。真実の幸せはそこにこそ見出すのです。


イエス様が山上でお話しくださったように

「(心の)貧しい者は幸いである。悲しむものは幸いである・・・」というように。

地上で富を得られるのは、誰であろうか。
勿論、悪人ばかりではない。
神様に愛されている故に、神様への信心と服従の故の結果として、富が与えられているという考えがあります。
それでは、この地上で富まない者、貧しい者は、神に愛されていないのでしょうか。
神への信心が不足し、神へ服従していない結として、貧しているのでしょうか。

この世の富の有無を基準として、神の愛と人の信心を測ることができるのでしょうか。
困難に遭うとき、神の守りがないと結論付けてよいのでしょうか。

神の守りには、私たちから痛みを避けること以上の、さらに大きな目的があるのです。
それは、私たちを神のためのさらに良いしもべとするという目的です。



大きな困難に見舞われている信仰の友が、苦しみぬいた末に、このような境地に達したと語ってくれたことがありました。それは、2014年の11月のことでした。
錦織選手の活躍が連日のように報道されるのを見て、神様に答えを頂いたというのです。

「私は、ウィンブルドンのセンターコートに立っている。一人ではない。イエス様とペアになって戦っているのだ。イエス様が一緒だから、勝利は約束されている。」

彼女の痛々しい試練を私は知っています。
「クリスチャンになったからといって、この地上人生がいつもうまくいくという保証はない」

その現実を、彼女も私も実人生でそれを実感しているのです。
この世の旅路に行き悩むことは、何度となくあるのです。

 

♪ けわしき 世の旅に 行き悩む時も
主は 希望 与えたもう やさしきわが友
主イエスはわれらの 恐れを除き
御手をのべて そば近く 引き寄せたもう

♪われらを 苦しめる こころの重荷を
主は 担い 支えたもう やさしきわが友
主イエスはわれらの 恐れを除き
御手をのべて そば近く 引き寄せたもう 

 

              (希望の讃美歌 380番)

 

この世の様々な重荷に、押しつぶされそうになる時、ほくそ笑んでいる存在がある。

人生のあらゆる機会を用いて、私たちから信仰を取り去ってしまおうとしている存在がある。


クリスチャンではない人が、うまく回る人生の舞台に立っている。
ほら、神様を信じるなんて馬鹿げているよ、あの人を見てごらん、とサタンはささやく。
イエスではなく、この私、サタンを信じてごらん。この世の富、栄誉栄華は思いのままさ。


そう!私たちのこの地上人生は「大争闘」の舞台なのです。


イエス様は荒野でこうしたサタンの誘惑に勝利されました。


そして、私はゲッセネマ園で悲しみもだえて祈られたイエス様の祈りへと導かれました。

「父よ、できることなら、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願い通りではなく、御心のままに」
         (マタイ26:39 マルコ14:36 ルカ22:41) 


私たちが「みこころのままに」と祈れるようになるまでは、苦しみぬく時間が必要です。
中には、瞬時にそう祈れる信仰の達人もいるかもしれません。
しかし、凡人クリスチャンである私は

「みこころのままに」との祈りに至るまでは、長い長い道のりを必要としました。


その道行きを共に歩いてくださる主イエスよ。
あなたの他に信じるに足るお方はございません。

 

主はわが岩、わが城、わたしを救う者

わが神、わが救いの角、わが高きやぐらです。 (詩編18:2)

 

あなたはわたしの灯火をともし、

わが神、主はわたしの闇を照らされます。 (詩編18:28)

 

この神こそ、その道は完全であり、

主の言葉は真実です。

主はすべてより頼む者の盾です。 (詩編18:30)

 

主のほかに、だれが神でしょうか。

われらの神のほかに、だれが岩でしょうか。 (詩編18:31)

 

あなたはその救いの盾をわたしに与え

あなたの右の手はわたしをささえ

あなたの助けはわたしを大いなる者とされました。 (詩編18:35)

 

わが力なる主よ、わたしはあなたを愛します。 (詩編18:1)

 

絶望の淵にいるときにも、主はともにおられました。

あまりの苦しさにくずおれる者に、

「それでもあなたはわたしの喜び」と主は仰せになりました。

 

マラナ・タ

あなたの神、主は

あなたのただ中におられる。

救いの勇士だ。

主は喜びをもって

あなたのことを楽しみ

その愛によって安らぎを与える。

主は高らかに歌って

あなたのことを喜ばれる。  (ゼパニア書3:17)