イエスは再び言われた。

「わたしは世の光である。わたしに従う者は

暗闇の中を歩かず、命の光を持つ」

ヨハネによる福音書 8章12節

 

死の陰の谷を歩いているかのような時が誰の人生にもあると思います。

その期間の長短はそれぞれでしょうけれど、あまりに長すぎると信仰も痩せてきます。

 

心身が消耗してしまい、活力、気力も失せて、その日その日、呼吸をするのがやっと。

食事をする気力もなく、日がな一日 横たわる。

起きようと試みても、崩れるように倒れてしまう。

横たわっているのが、ベッドから床に移動したに過ぎないままで、日が暮れて行く。

 

祈っても、祈っても、改善の見通しが立たない・・・

チャンスを手にしたと思っても、

すくった水がこぼれるように指の間から瞬く間に流れ落ちる。

 

それは、イエスに従っていない人生の結果だろうか?

従っているとは、自分が勝手にそう思っていただけであって、

神様の目からは、背信者に過ぎないのだろうか?

自己吟味をし過ぎて、自虐的になった時代もあった。

その頃には、もっと祈れたものだった。

炊事も、洗濯も、掃除も、規則正しく、それなりに過ごせた日々だった。

日常生活そのものも、指の隙間からこぼれ落ちてしまって、

その一日、何をしたのか、誰に会ったのか、記憶もおぼつかない。

 

死の陰の谷を歩むのも、長い人生のほんの一時のこと。

この体験も、神は益となしたもう・・・と信じていた時もあった。

いや、今でも「万事相働きて益となしたもう」と唇は動くのだが・・・

それを本気に信じているのだろうか? 自分で自分が分からなくなっている。

自分の存在そのものも、夢かまぼろしのままに、時間ばかりが過ぎて行く。

 

死の陰の谷にも、イエスの光が届くから、決して暗闇ではない。

ほのかな明るさなのだが、視力も弱っている身には、

この明るさがかえっていいのかもしれぬ。

これも、神のご配慮だろうか。

 

初めは、神は、忍耐を学べよ、と仰せだと思った。

いかなる時にも、神を待ち望め、と仰せだと思った。

 

今日の日も、生かされたのは、

きっと、「生きよ」というイエスの声が、聞こえていたからだろう。

「あなたは、私の目に高価で貴い」というイエスの愛の言葉が、

包んでくれていたからだろう。

 

死の陰の谷を歩んでいても、

暗闇の中を歩かず、命の光を持つ・・・このことを体験中なのかもしれぬ。

 

主のために、何もしてはいないのだが、(奉仕も、伝道活動も)

それでも、イエスを我が主、我が神と、我が救い主と信じる信仰を頂いているのだから、

主イエスに従って生かされているのかもしれぬ。

 

イエスの十字架を見上げ、イエスの再臨を持ち望むならば、

イエスに従って生きていることと、神はみなしてくださるのだ。

 

神は、信じる者を見棄てたりはなさらないのだから。

イエスは、今も、天の聖所で執り成しの祈りをささげてくださっているのだから。

 

主よ、ありがとうございます。

愛してくださって。信じさせてくださって。

 

一日に、何度も、何度も、「生きよ」と語り掛けてください。

明日のことは、明日にまかせて、今を生きる力をお与えください。

永遠の救いについては思い煩ってはおりません。

ご再臨の朝には、イエスと共に天にあげられる宇宙旅行を待ち望みます。

その時には、死の陰の谷を歩んだことの意味も、きっとわからせていただけます。