ごきげんよう!さわこです

先週の教会祈祷会で、とても気になった箇所がありました。

「マルコ4章21-25  ともし火と秤の譬え」 の中の一部です。

また、イエスは言われた。「ともし火を持ってくるのは、升の下や寝台の下におくためだろうか。燭台の上に置くためではないか。隠れているもので、あらわにならないものはなく、秘められたもので、公にならないものはない。聞く耳のある者は聞きなさい。」

また、彼らに言われた。「何を聞いているかに注意しなさい。あなたがたは自分の量る計りで量り与えられ、更にたくさん与えられる。持っている人はさらに与えられ、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる。」

 

 22節「隠れているもので、あらわにならないものはなく、秘められたもので、公にならないものはない」とは・・・

 ともしびは、隠れたものを明るみに出す。明るみに出された罪を知っていながら、それを神に申し上げないなら、神は、私たちが申し上げない罪を赦すことはできないのです。

 要するに、神は人間との関係において“なあなあ”にはなさらないのです。

ですから、  そこで、イエさまは、私たちに気づいていないものを気づかせてくださって、神様に罪を告白できるように導いてくださるのです。

 

9節にも出てきた「聞く耳のあるものは聞きなさい」とは・・・

聞く自由、聞かない自由、選択の自由があるということ。

この世界は、すべて神によって造られたこと、イエスが罪びとを贖ってのち、再びこの地上に来られ、世界を新しくされること、聖書のこの約束を信じて受け入れることができるか、イエスを信じ、御言葉を受け入れることができるのは恵みによるのだが、それを受け入れる、受け入れないは、聞く耳があるかないかですから。

 

「自分の量る計りで量り与えられ」とは・・・

わあ~どうしよう!私の計りは小さい! 気づかぬうちに人を批判していることが実に多い。言い訳も多い。自己正当化も多い。ああ、イエス様、私は罪深いものです。あなたの憐れみにおすがりしなくては、どうにもならない愚か者です。信仰の薄い者です。私は、信仰もないに等しいクリスチャンの名折れです。

でも、イエスを信じる信仰を頂きました。もったいないくらいに、うれしいです。それだけで充分です。取り上げられたとしたら、それも受け入れて文句を言いません。潔い心をください。

 

24節「何を聞いているかに注意しなさい」とは、・・・

聖霊様から聞くことです。人の話を鵜呑みにしないことです。聖書に書かれてい

ることを、自分に都合よく変形させて曲げて聞くことのありませんように。

 

 25節「持っている人、持っていない人」とは・・・

たくさん持っている人、少ししか持っていない人を表す。自分の与えられたものを人と比べて妬んだり卑下したりすることなく、ありがたく感謝して受け取ることで、賜物は用いられ増やすことになる。

ルシファーの罪は妬みから始まりました。神様は私の心の極みまでともしびを照らして、罪を指し示して妬む思いを気付かせて悔い改めの心をくださいます。どんなものでも、神様のお与えくださったものは、自分の十字架として背負ってイエス様についてくことのできる信仰をお与えください。

 

 

※    神は人間との関係において“なあなあ”にはなさらない。

祈祷会の時の牧師のこの言葉が気になっていました。

すると、翌日の聖書通読はレビ記10章でしたが、そこから、見えてきたものがありました。

1節から11節は、異火を炊いたアロンの息子ナダヴとアビウの罪について書かれていました。併せて、EGホワイトの「人類のあけぼの上 31章」の解説を読みました。

 

引用します。

神は、なまはんかな従順をお受けになることができない・・・

 

戒めから離れ、世俗のものと、神聖なものとを区別しない者に、神はのろいを宣告しておられる・・・

 

だれも自分を欺いて、神の戒めの一部は不必要であるとか、神はご自分の要求なさることの代わりのものでもお受けになるとか考えてはならない・・・

 

神は、み言葉の中に、人がその好みに従って服従してもしなくても、結果は同じだというような命令は一つもしておられない。もし、人間が厳格な従順以外の道を選ぶなら、「その終わりはついに死に至る道となる」(箴言14:12)のである。・・・

 

・・・自分の罪の言い訳をしようとする罪人に対してまちがった同情を示す者を、神は責められる。罪には道徳的な感覚を失わせる作用があり、そのために悪を行う者は、その罪の大きさを自覚しない。そして、それを悟らせる聖霊の力がないので、彼は自分の罪に対してなかば盲目的な状態に陥っている。

 

このような罪に陥っている者に、その危険を教えるのは、キリストのしもべたちの務めである・・・

 

罪びとの目を盲目にさせて警告の効力を失わせる者は、そうすることが自分たちの愛の証拠であるとうぬぼれがちである。

 

しかし、実は、彼らは神の聖霊のわざに正面から対立して、これを妨げるために働いている。彼らは、罪びとを欺いて、滅亡の断崖に憩わせている。

 

この間違った同情の結果、実に多くの人々が滅びに陥ってしまった。

 

もしもナダブとアビウが、初めから酒を欲しいだけ飲んで半ば泥酔状態になっていなければ、この致命的な罪を犯すことはなかったであろう。・・・

 

神は人間との関係において  “なあなあにはなさらない” とは、こういう意味なのかと理解の助けとなりました。

 

神様の「互いに愛しあいなさい」「自分を愛するように隣人を愛しなさい」

こうした愛のおススメを、人間的愛の基準で受け取る時、間違った同情をすることがある。

互いに戒め合うべき時に、同調してしまって、霊的盲目に陥ってしまうことがある。

そして、神様は愛のお方だから・・・神様はすべてを赦してくださるお方だから・・・

と、なあなあになって・・・ぬるく、ぬるく、ぬるま湯に・・・なまぬるく・・・

あっ!

ヨハネによる黙示録を思い出しました。

3:15-16「・・・あなたは冷たくもなく、熱くもない。むしろ、冷たいか熱いかであってほしい。このように、熱くもなく、冷たくもなく、なまぬるいので、あなたを口から吐き出そう」

3:19「すべてわたしの愛している者を、わたしは叱ったり、懲らしめたりする。だから、熱心になって、悔い改めなさい」

 

マラナ・タ

主イエスよ、早く来てください。

主イエスの恵みが共にありますように。