ごきげんよう!さわこです

 

私たちの教会は世界中、同じ安息日学校教課研究ガイドを用いています。

一昨日、祈りの友からメールがありました。

「今日のガイド、ペトロ第一2:18-23がよかったです。19節が心に響きました」

 

ペトロの手紙一2章19節

「不当な苦しみを受けることになっても、神がそうお望みだとわきまえて苦痛を耐えるなら、それは御心に適うことなのです」

 

私も、同じです!

誤解、八つ当たり、とばっちり・・・

 

情けなくて、悔しくて、声をあげて泣いたこともありました。

なぜ、私が代わりに叱られるの?

なぜ、私が矢面に立たされるの?

口の堅い信仰の友に、ぽろぽろ涙を流しながら、聞いてもらったこともありました。

安心して聞いてくれる友が与えられていることにとても感謝しました。

 

信仰生活にも長い年数を数えるようになって、ようやく気が付くようになりました。

不当な苦しみを苦しむことの恵みです。

そのことを体験するようになってやっと気づいたのです。

 

不当に扱われたことの誤解が解けたから・・・ではないのです。

八つ当たりしてゴメンね、と言ってもらったからではないのです。

「くやしいです、くやしいです。イエス様。でも、イエス様のお苦しみにおあずかりできました。」と祈って平安をいただいたのです。

 

相手は、誤解したことにも、八つ当たりしたことにも、自己正当性が成立しているのでしょうか、決して謝罪はありませんでした。

それでも、解決したのです。

 

しかし、私をそのような目に合わせた相手を責めることはしませんでしたが、軽蔑する気持ちを消し去ることはできませんでした。平然としている相手に、笑顔を返すことで私はその人を見下していました。愛することもできませんでした。それは、紛れもなく罪です。

 

ですから、神様は、そういう私を放置はなさいませんでした。

私の心に刺さった棘によって、昔の古い罪の記憶を呼び覚ましてくださったのでした。

無意識に、気づかぬうちに、失礼なことをしてしまった記憶です。

その時には、礼を尽くしたつもりでした。感謝の気持ちを伝えたつもりでした。

 

しかし、不当な仕打ちを受けてみて、初めて私は何人もの人に無礼を働いていたことに思い当たったのです。

不当なことで責めたてられることがなかったら、思い出すこともないままに過ぎてしまったことでしょう。

 

私は古い古い自分の失敗に気づかせていただいて、悔い改めの祈りをお捧げすることができるようにしてくださったのでした。

忘れていた人へのお詫びの祈りと祝福の祈りをおささげできたのです。

 

「私の神様、どうか○○さん、△△さんを祝福してください。もし、不愉快な日々を過ごしていらしたら、『なんだか今日は幸せだ、うれしいなあ。なんていい天気なんだ。今日の空の色はなんて美しいんだろう』と日常の中で喜びを見いだし幸せな気持ちして差し上げてください。」とイエス様のみ名によって祈りました。

 

私の受けた不当な苦しみは、神様がそうお望みになったからだったのです。

苦痛を耐えることを通して、私に古い過ちを思い出させるための、神様の療法だったのだと思いました。

 

私のこのあかしを聞いた信仰の兄弟は、

「そうか、そうだったのか、理由もなくうれしい日、空をいつにも増して美しく感じた時には、私のために祈ってくれている人がいたということなのですね」と言ってくれました。

 

私はペトロ第一2章9節の意味が分かりました。

 

マラナ・タ

「不当な苦しみを受けることになっても、神がそうお望みだとわきまえて苦痛を耐えるなら、それは御心に適うことなのです」